モリノスノザジ

 エッセイを書いています

坊主に水を遣る

 ずいぶん遠くのようで、ついこのあいだのできごとのようでもある年越しのことをおもっては、ためいきをつきたくなる。いつものことだ。翌日からはじまる「新年」に希望をはせ、胸いっぱいで眠る大晦日。一年の計は元旦にあり、なんて張り切って、一年の目標を夢に浮かべるお正月。それなのに、ひとつきも経たないうちにこうだ。一か月前に決めた日々の目標はとっくに破られて、夢も希望もない生活に揉まれてくたくたの雑巾みたいになっている。

 ああ、毎日が大晦日であり元旦であったなら、私はどれだけのことを成し遂げられただろう?「三日坊主」という言葉は、まるで私のためにある。

 

 ひとつのことに夢中になれる人に憧れている。ずっと。

 

 小中と義務教育を終えて入学したのは、いわゆる「進学校」だった。といっても、とびぬけて成績のいい生徒が行くような学校でもない。成績で言えば中くらい。文武両道、なんて謳っておいて結局そのどちらでもいまいちぱっとしないような、そんな学校にいて、自分を含め周りもそんな、中途半端に勉強のできる中途半端なのばかりだった。

 

 けれどもそれはよく言えば「バランスが取れている」と言ってもいい。大学に進学した私は、ある意味で極端ともいえる人たちに出会った。フレディ・マーキュリーに心酔する彼は、まともに授業にも出ず、サークルの部室で一日中ベースやドラムを弄っていた。論文を読むのに夢中になって、財布も上着もほっぽったまま本だけを持って帰りのバスに乗った友人もいた。小学生の頃からの夢を叶えるためにそこにいる友人もいた。それは、たくさん。

 

 なんとなくそこにたどり着いて、なんとなく流されるように生きている私にとって、彼らはとてもまぶしかった。長期的な目標を描いて、そこに行きつくまでの道をただ黙々と歩み続けることの美しさ。あるいは、ほかのなにもかもに盲目になったとしてもただひとつのことに夢中になれるひたむきさ。そのどちらにも私にはなかった。私は努力さえすればたいていのことができるけれど(運動を除いて)、そのどれに対しても彼らのように夢中になって続けることはできなかった。まるで「文武両道」なんて言いながら、そのどちらでもたいした結果を残せない、わが母校みたいだ。

 

 「三日坊主」は、そんな私のためにある言葉だ。いろんなことに手を出しては、一か月と興味が持たずに飽きてしまう。努力も続かない。

 

 三日坊主、というのは、あきらめた植毛だ。つるつるの頭をふさふさにするには、根気よく毛を植えていかなければならない。一日や二日で植えられる毛なんてたかが知れている。数日間毛を植え続けてふと周りを見渡したとき、そこに広がる淋しい光景を前にしてもそれが続けられるかどうか。私はそれができないから、あっちにふわふわの毛を植えてみては、飽きてこっちにきいろい毛を植えたりしている。いろいろなことに興味を持てることを一種の強みだと考えてみたこともあったけれど、結局そこにできるのは、ばらばらで統一のとれない、それであって量もまたふさふさと言うにはほど遠い、ただただみっともないだけの頭だ。

 

 そんな私を変えたくて、そうだ。2021年こそはがんばって短歌を詠もうと決意したのだった。短歌をはじめてからもう5年になる。けれど、自分で満足がいくような歌も、他人にほめられるような歌もろくに詠めなくて、他人の歌も上手に読めなくて、というかそもそも他の人のようにどっぷり短歌に夢中になっているわけでもない自分がなんだか恥ずかしくなってくる。いったい自分はどうして短歌を続けているんだっけ…?

 

 短歌を詠むのは、たすかりたいからだ。あるとき、こんな歌を詠んだ。

 

どうせ私は凡人だからとうつむけばぼんけんですがと犬がみあげる

 

 いつものように仕事でしょうもないミスをして、つまらない帰り道を歩いていたときにふと浮かんだ歌だ。そっか、犬はきっと自分が凡犬だなんてそんなくだらないことは考えないだろうし、そんなふうに見上げてきた犬の顔をみたら、自分が凡人だとかそんなこと、どうでもよくなってしまうかもしれないな、と、自分がつくった歌ながらに納得した。同時にそれは、歌にはこんなこともできるのだと気がついた瞬間でもあった。

 

 私はたすかりたい。たすかりたいし、たすけたい。中途半端でダメな自分を肯定してゆるしてあげられるような気持ちになれる歌をつくりたいし、同じような気持ちの人がいるならたすけてあげられるような歌をつくりたいと、そのときはじめておもった。

 やめてしまったら、きっと成仏できないだろうな、とおもう。成仏するのは死んだあとの魂なのかもしれないけれど、生きていたって同じだ。私は「夢中になれない私」として、自分をこころの底からは好きになれずに残りの人生を生きていくことになるかもしれない。そして、自分自身をたすけられるようななにものも、このさきつくることができないかもしれない。

 

 でも、本当に?本当に自分は変わる必要があるのだろうか。私自身をたすけたいとおもっている私が、今の私を否定して、捨てなければならないだなんて。それは自分を否定することではないのか。

 でもそれなら、いったい私はどうしたらいいんだろう?

 

 

 花屋に並ぶようなきれいな花ばかり見すぎていたのかもしれない。そういうのはきっと、ふつうの育てられ方をしていない。まわりから雑草はすべて抜き去られ、出荷のときもちょっとでも規格外の出来であればはねられる。そうやって市場にでてきた花とくらべてはならない。そうおもうしかない。そうして、自分の坊主頭にただひたすらに水を遣りつづける。どうすればいいというか、私にできることはそれだけしかないのだ。

 

 ひとつのことに夢中になれない私は、お店で売られているようなたった一輪のきれいな花を育てることはできないかもしれない。あっちを向いたりこっちを向いたりしながら、まわりを見渡せばてんでばらばらで、なんだかよくわからないものがあちこちに生えている。

 でも、よく考えたら坊主には一本だけ毛が生えているより、できるだけひろい範囲にたくさんの毛が生えているほうがよいではないか。たとえそれが「なんだかよくわからないもの」であったとしても、ないよりはましだ。そんなふうに考えることにする。なんて、むちゃくちゃだろうか。

 

 それでも、そうやってばらばらに生えているそこにも、ごくごく小さな花でもいい。花を見つけることができれば。私はそこに寝転んで、その場所を好きになれる気がする。そうしたらそのときはもう、私の勝ちなんだ。それが勝ちってことなんだとおもう。

 

 

 ちなみに「三日坊主」という言葉は、坊主頭に植毛をしても三日で諦めてしまうという故事から…ではなく、お坊さんとして寺に入っても三日で出てきてしまうことを言うようです。そりゃそうだ。