モリノスノザジ

 エッセイを書いています

今年の一歩

 自分自身のことはそこまで好きなわけでもなく、かと言って大嫌いということもない。なんだかんだで30年以上一緒に過ごしてきた自分のことだから、情が沸いてしまうのだ。いまさら見捨てるというわけにもいかない。もっとも見捨ててしまえば私は終わってしまうのだから、どっちみち見捨てるとわけにはいかないのだけれど。

 

 年末になるとどういうわけか一年を振り返りたくなってしまって、だれに言われたわけでもないのに頭のなかでこの一年にあったことを思い返したりしてしまう。そして、普段は大好きでも大嫌いでもない自分を、その年末に限ってほんのちょっぴりほめてあげたい気持ちになったりもする。

  終わった後に振り返る一年が予想通りであったことも予定通りであったこともいままでに一度もなく、たいていの一年はどこかしら予想外な一年であった。流されてそうなることもあるけれど、たいていは過去の自分が踏み出した一歩によるものだ。だから、私は思わずつぶやく。なんだ、私も捨てたもんじゃないじゃん、って。

 

 

 2020年は、圧倒的に映画を観ることがたのしくなった一年だった。そうなった理由は三つある。コロナ禍で持て余した時間を、自宅で映画を観ることにあてたこと。メモを取りながら作品を観て、観終わった後に感想をノートにまとめる習慣をつけたこと。短編映画祭のオンライン上映視聴をきっかけに、今まで食わず嫌いしていたジャンルの作品にもふれることができたこと。この三つだ。

 

 オンデマンド配信で映画を観ることが、最近はふつうになった。気に入った作品や気になった役者がいたら、その場で関連作品を調べてすぐ見ることができる。シアターではできない鑑賞方法で、監督や役者のことをいままでろくに知らなかった私にとってはとても勉強になった。

 

  映画のなかには、観てもよくわからないものもある。なにがおもしろいのかよくわからない、というならまだましで、なにが起きているのかよくわからないというレベルのものすらある。

  さまざまに行われている映画祭の多くが今年オンライン(も)開催となり、私はそのうち二つの映画祭のチケットを購入して視聴した。どちらも短編を集めた映画祭だ。短編映画というのは映画手法の実験場、というのか、ユニークな作品が集まる傾向にあるらしく、私にはみていてもどう受け止めていいのかわからないものも多い。

  わからないというのは苦痛だ。だけど、わからないでもわからないなりに見続けることで私は「そういう人」にだんだんなっていくのではないかと思うし、今振り返れば、現にそうなりつつあるのではないかと思う。いろんな映画を、以前よりも楽しめるようになったというのは、これからの私にとって大きな財産になるだろうな、と思う。

 

 

 2020年は、私がこれからこうなっていくのだろうという「そういう人」の兆しのようなものが、少しずつ、かすかに、でもしっかりとした手ざわりをもって私のなかから浮かび上がってきた一年だった。それも、いくつも。ブログを書いていたり、あるいは生活をしていて、もしかして私はこういうことをしたいと思っているのかもしれない、と感じるものにも出会うことができた。私はだめで、平凡で、なんかしょうもない人間みたいにいつも思っているのだけれど、こうやってなんだかんだ歩を進めているところはすなおに尊敬に値する。なんだ、すごいぞ、お前。

 

 2021年、私は私をどこまで連れて行ってくれるんだろう。こういうときだけ都合よく、期待なんてしてみたりする。でも、自分で自分にかける期待はそこまでプレッシャーにならない。これは「わくわく」というものだ。来年の今ごろ、何を考えているだろう?私は、私が楽しみだ。