モリノスノザジ

 エッセイを書いています

次のご注文は?

 「本日中にお召し上がりください」を、あの人たちはどういうつもりで口にするのだろうか?夜の8時に山盛りのパンを買う人。箱一杯のケーキを買う人。世の中にはきっとその「本日中にお召し上がりください」を忠実に守る人や、忠実に守ることができる幸せな人がいるのかもしれないけれど、私にとっては店側が張るただの予防線だ。それが守られたことなどない。だからこそ、翌日以降に食べたパンやケーキが原因で腹を壊したとしても、その責任は自分で負わなければならない。

 はあ。そんなことはいいのだけれど、朝にお腹を痛めやすくなったのはもしや歳のせいではないか。ため息をつきたいような気持ちで、私はデスクを立った。

 

 

 冷たい廊下を渡って、トイレの前に立つ。中には誰もいないらしく、トイレは暗かった。作業用具をしまったり、清掃員さんが清掃用具を洗ったりするための小部屋に電灯が灯っていて、扉の隙間から漏れた光がトイレのタイルを細長く照らしている。入り口付近にある電灯のスイッチに手を伸ばすと、そのすぐそばに「節電にご協力ください」とシールが貼られているのが目に入る。具体的にどうしろと言わない、日本人らしい持ってまわった命令文だ。私は電灯をつけて、中に入った。

 

 トイレに入ると、左手にふたつ個室がある。手前の扉に手をかけると、そこには「扉は閉めてご利用ください」の文字。誰が開けっ放しでするものか。中に入ってみる扉の裏には「お忘れ物にご注意ください」とある。

 

 便座に座って周りの壁をよくよく見てみると、よくもまあこんなに小さなスペースにこれだけ貼り紙をしたものだ。便座に座ったままでも四方の壁がすべて触れられるくらいのスペースに、所狭しと貼り紙やテプラが貼られている。「トイレのなかは禁煙です」「備え付けの紙以外流さないでください」「トイレの故障を発見したときは、1F警備員室までお知らせください」。さらには「救急車を呼ぶときは住所を先に伝えてください」とか「トイレのなかで具合が悪くなったときは、このボタンを押してください」なんてのもある。なんだか増えた気がするなあと思ったら「便座の蓋を閉めてから流してください」という貼り紙だった。注文の多いトイレである。

 

 トイレの注文の多さは、それを使用する人間の程度をあらわしている気もする。いつだったか街のはずれのほうにあるショッピングセンターのトイレに入ったら、流しのそばに「ここで髪を切らないでください」なんて貼り紙があった。ショッピングセンターの流しで髪を切るような人間がいるのか…そして、その人が切った髪でこの流しが詰まったりすることがあるのだろうかと驚愕した。

 

 それを考えると、そんな貼り紙がないだけマシである。洗面所に貼ってある「手洗いをしましょう」「ジェットタオルは現在停止中です」の文字を横目にトイレを後にする。最後までとにかく注文の多いトイレである。

 

 後日、顔見知りの清掃員さんからこんな話を聞いた。ここのところ、便座の蓋が汚れやすなっていて困るそうだ。何で汚れるかって、それは、茶色の、ざらざらした…あ、そうじゃなくて「土」なんだけど。いったいなぜ便座が土で汚れるのか?日本のトイレに不慣れな外国人が便座の上に立つわけではない。隣の個室を除くふらちなヤツが靴のまま便座に上るのでもない。新型コロナウイルスの感染拡大で衛生観念が極度に高まった一部の人が、便座の蓋を蹴って上げ下ろしをするそうなのである。まさか、想像もつかなかった。

 

 あのトイレに新しい貼り紙が増える日は、そう遠くない。かもしれない。

 

   

 お題「#わたしAWARDs 2020」、30日まで募集受付中です!ぜひに

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