モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ちょっといい顔になりました

 ほめられるのは、簡単じゃない。単に私がほめられ慣れていないという、それだけのことなのかもしれないけれど、人にほめられるのは気恥ずかしくてくすぐったいことだ。

 何についてほめられるかというのもいうのもわりと重要で、たとえば、自分ではたいしたことないとか、十分に力を出せなかったと感じている事柄について他人に褒められたりするともやついた気分になる。人にほめられるというのは基本的にいいことのはずなのに、素直に受け取って素直によろこぶことができないこともある。だから、ほめられるのも簡単じゃない。

 

 でも、だからこそ、自分でもがんばったと思うことを他人にほめられるのはすばらしいことだろう。他人というのはそこまで他人のことを見ているものだろうか?わからないけれど、もしもそうだとしたら、なおさらしあわせなことだ。自分自身で評価している事柄について他人にもほめられるという、その意見の一致は。

 

 

 鏡を見てにやにやする。――というのは嘘だ。私は鏡が苦手だから、意識して鏡を見ることはあまりない。だから、自分の顔を見るのは通りかかった車の窓ガラスであったり、エスカレーターに乗っているときに不意に現れる壁の鏡であったり(それにしても、いったいなんのためにあるのだろう?)するのだけれど、不意に自分の顔を見せられることにも以前ほど抵抗がなくなった。なんてったって、私の顔は最近好ましい。

 

 今になって思えばちゃんちゃらおかしいことだけど、子どものときこそ「若くみられることはいいことだ」と信じていた気がする。毛のない頭を馬鹿にしたり、先生の頬に増えてきた皺をわざわざ指摘したり、そういうことをするときに、自分だけは歳をとってもいいという考えはなかったはずだ。子どもなんだから心配しなくてもちゃんとガキなのに、若々しくいることに若干のこだわりがあったような気がする。

 

 けれど、歳を重ねれば若くみられることだけがいいわけではないことに気がつく。歳不相応に老け込むのもかっこ悪いが、いくつになっても軽薄で責任感のない顔をしているのもそれはそれでかっこ悪いのだ。いつしか、私の目標は「いつまでも若くみられること」ではなくて「歳相応の表情を持つこと」に代わった。

 

 その意味で言うと、私の顔は今年いい感じに大人になった気がする。なにがどう、とは言えないのだけれど、ずっと気に入らなくて、だから鏡をみたくなかったその表情を、最近はあまり見なくなった気がする。きっと表情は中身ともリンクしていて、うかつに口を開いて馬鹿なことを口走ったりしなくなったというか、それだけの、自制が備わった気がする。それは、私が自分自身の悩みと向き合って、考えて、成長した証だ。お風呂の水面に映る自分自身の顔にあげる、『2020年、ちょっといい顔になりました賞』だ。

 

 

 先日久しぶりに友人と会うことになって、そうだそういえばと思って聞いてみる。

「ちょっと、大人っぽい顔になったと思わない?」

問われた友人がなんだと聞き返すので、仕方なく説明する。

「だから、久しぶりに会って顔つきがちょっと大人になったなって思わない?」

「は?」と友人。

 …仕方ない。自分の評価と他人の評価とは、概して一致しないもので、それが一致するのはまれにしかない幸福なのだ。ちょっとだけ大人っぽくなったはずの顔で私は友人をゆるす。ここでプンプンするのは、この顔には似合わないことだから。

 

   

  2020年の終わりに、あなたもあなたをほめてみませんか?他人にはみえないがんばりも、ちょっとした変化も、あなた自身なら気がついてあげられるはず。「#わたしAWARDs 2020」は12/30(水)まであなたのご参加をお待ちしています!

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