モリノスノザジ

 エッセイを書いています

きょうも大丈夫

 通勤電車にはやや遅い時間、のはずだけど、空いているというわけでもない車内だった。ロングシートにはまばらな空席、それに、つり革につかまって立っているひともちらほら。これだけ座席が空いているのに立っているということは、つまり、立ちたいということなのだろう。私は座りたいので、迷わず座る。冬の、ヒーターですこしあたたかいシートに腰を下ろす。

 

 新型コロナウイルスが騒がしい世のなかだから、乗客もなんとなく気にしているのか、座席の空きは微妙だった。みんなが少しずつ距離を空けて座っていて、それが1.5人分だったり3人分だったりまちまちなものだから、どこに座ろうか一瞬迷う。一瞬迷って、1.5人分の隙間に座ることにした。私と隣の人との間には、0.5人分の隙間が残る。

 

 やがていくつかの駅を過ぎて、車内も次第に混んできた。困った。乗り込んできた女性が、視線だけで空席を探す。余裕を持って座れそうな席がないことを確認したようで、彼女はつり革にぶら下がることにした。目の前には、私と私の隣の人との間の0.5人分の空席がある。

 

 私の身体があと三分の一ほど小さかったら、この人がここに座ることができたな。と思う。そして、申し訳なく思う。好きでもないのに立たなくちゃならない人がいるっていうのに、座っててごめん。それも、こんなにゆったりと座っててごめん。でも、と気持ちで反論する。見てよ、この隙間は0.5人分しかないんだ。自分が座ったときにはもうすでにここには0.5人分の隙間しかなくて、だから、仕方がないんだ。私だってできれば効率よく、座りたい人がみんな座れるように座りたいんだ。でも、仕方ないんだ。

 

 そしてふと目を上げると、反対側の座席はこちらよりずっと余裕を持って座っている。誰も誰ともくっついてなんていなくて、実にのんびりとした表情でくつろいでいる。いったい、なんなのかなあと思う。つり革にぶら下がっていた女性が心のなかでどう思っていたかはわからないし、そのことに私が責任を持つ必要もない。

 電車を降りると同時にその気まずさからも抜け出して、でも、こういうよくわからない関係が毎日リセットもされずに続くのが、会社をはじめとする、生活なのだよなあと思う。

 

 

 理由もなくなんだか自分が悪いことをしているような気持ちにさいなまれることが最近多くて、ああ、これはきっと疲れているんなと思った。それで、今日は久しぶりに一日休みを取った。休みと言っても、休みを取ることだってなんとなく心の負担なのである。実際会社に行ってやっていることと言えば、どうしても私じゃなければならないような仕事でもなければ、ものすごく緊急な仕事と言うわけでもなくて、つまり、私が休んだってなんてことないはずなんだけど、でも、休むのもそれなりに気を遣う。

 

 こんなふうにあれこれ気にして生きるなんて段階を、私はもうとっくに過ぎたのかもしれないなんて考えることもあって、それはそれでちょっとさみしいなと感じたりもしていたのだけれど、どうやら終わってはいなかったみたいだ。戻ってきたら戻ってきたで、それはそれで別にうれしいものでもない。

 

 

 商店街の一角にある商業ビルの自動ドアをくぐって、つめたい色の階段を登る。不動産会社のオフィスと並びにある小さな映画館にやってくると、扉には〈CLOSED〉の札が掛けられていた。どうやら、本日最初の上映作品の開場ギリギリまではお待ちください、という意味らしい。廊下に並べられた丸椅子に腰かけると、蛍光灯の灯りが届かない給湯室の角っこが視界に入った。

 

 いわゆるシネコンでは上映されないような作品もここは取り扱っていて、そのラインナップによって足が遠のいたり近づいたりしていた。それで、今は近づきたい気分。そのことに先週気がつき、それで今日は、映画を観るついでにメンバーズ会員に登録するつもりでいたのである。早めに来たのは、会員登録に時間がかかるかもしれないと思ったから。

 

 でも、まさか開演15分前にならないと映画館の受付そのものをやっていないとは想定外だった。申込書はあらかじめ書いてきてあるけれど、たった15分で手続きを済ませられるだろうか?私の手続きのことだけ考えるならば時間は十分だろうが、私が受付で会員登録の手続きをしている間、映画を観に来たほかのお客さんたちは?同じように上演まであと15分しかないというのに、カウンターの前でイライラと待ち続けることになる。

 

 そう考えている間にも私の横の丸椅子は埋まって、当初ひとつおき間隔で座っていた椅子がいつのまにか詰められて、全部の椅子に人が座っている。私の隣に座ったのは短髪に少し白髪の混じったおばあさんで、彼女はマスクを着けたまま目だけで私に微笑んだあと、椅子に腰かけてまっすぐ前を向いていきなり真顔になって、それから映画館が開くまでずっとそのままだった。おばあさんの後ろには、少なくとも5人の人がいる。この列に並んでいる人はなぜだか女性ばかりで、それが何となく私を不安にさせた。

 

 

 結局、なんなかった。映画館の扉が開いて、丸椅子に座っていた女性たちがいっせいに立ち上がる。映画館に入っていく。私は、映画館のなかに入ったところでほかの客たちをやり過ごし、廊下に並んでいた全員がカウンター前に並んだのを見届けてから列の最後についた。それでも、メンバーズカードの発行はほんの1、2分で終わった。上演開始10分前には、私はがらりとしたスクリーンで真ん中の席を陣取ることに成功した。ほんと、なんないのだ。

 

 この映画館にくるひとはたいてい一人だ。ときには(誰がこんな映画を観るんだろう?)と思うようなマニアックじみた映画も上映されていて、そういう映画を同じスクリーンで共有した人とはちょっとだけ言葉を交わしてみたいような気持にもなるけれど、それが実現したことは一度もない。エンドロールが終わって室内に明かりが戻ってくると、みんなそれぞれの感慨を自らのうちに握りしめて、黙って映画館を去っていく。同じ映画を観ているのに、と思いながら、この距離感は居心地の悪いものではない。

 

 そして、今日みたいな一日は私にとって必要だ。いろいろと心配していたけれど、電車のなかで怒られることも、映画館でたくさん人を待たせることもなかった。会社からも電話がかかってきたりはしなかった。というか、電車に乗ってて怒られるって何事だよ、という感じもするけれど、そういうことが心配な気持ちになる日だってあるのだ。

 だから、今日のことを忘れないように書いておく。大丈夫、大丈夫だよって。今日も、きょうも大丈夫だったって思いを抱きしめて、明日を生きていく。