モリノスノザジ

 エッセイを書いています

苦くて苦い

 好きか嫌いかで言うと、嫌い。

 ――だったはずだ。いや、厳密に嫌いだった…なんて言うと、最悪な第一印象から始まるラブストーリーみたいだけれど、でもこれは違う。

 なにしろあいつと言えば真っ黒でドブみたいな見た目をしているし、舐めれば苦い。むしろ苦いだけだし、そもそも焦げた豆を材料にしているなんてふざけた代物なのだ。大学生にもなると周りは背伸びしてそれを飲みたがるのだけれど、あんなものを喜んで飲むなんて気が知れない。そう、コーヒーのことだ。

 

 何年か前、自宅にコーヒーメーカーを買った。スーパーで買ってきた粉をセットして湯を落とすだけの簡単な、数千円で買える品物だ。そんな安物のコーヒーメーカーを、私は粗末に扱っている。

 コーヒーフィルターをセットするドリッパーはたまに水洗いする程度。こぼれたコーヒーが受け皿で蒸発してカピカピになっても、そのままにしておく。もちろん、マシンの水通しなんて一年に一度するかどうかだ。少し衛生面が気にならないこともないが、これでもコーヒーメーカーにしては大事にしすぎる。犬にかわいい首輪をつけたり服を着せてかわいがるのをむしろ「かわいそう」と昔の人が言ったみたいに、そして犬を屋外につないで残飯を食べさせていたみたいに、コーヒーメーカーは汚く、なるだけ粗末につかうことが愛であり、大事にすることだと私は思い込んでいる。

 

 

 入り浸っていた。そう、そこが水の中だったら指なんてとっくにふやけていたくらい、私は研究室に入り浸っていた。家族よりも恋人といるよりも長い時間を、そこで同期の友人たちと過ごした。みんなで外国語のテキストの訳を教え合って、夕方になれば連れだって生協に半額弁当を買いに行き、時には本棚と本棚の間で寝袋にくるまって寝た。研究室には汚い汚いコーヒーメーカーがあって、それで沸かしたコーヒーをみんなで分けた。

 

 いつも研究室にいるということもあり、気が向いたときには掃除をして、消耗品が切れたら買い足したりもした。コーヒーを飲まない私がコーヒーメーカーの世話をするのは変な気もするけれど、私はコーヒーメーカーのフィルターを取り換え、余ったコーヒーを配り、授業が終わるたびに何人か分のコーヒーを淹れなおしたりした。そうしていつのまにか、私はコーヒーを飲むようになっていた。

 

 

 考えてみれば、昔嫌いだったものを大人になってから好きになるなんてこと、よくある話だ。ちいさいころはそれなりに嫌いなものがあった気がする。魚とか、蟹とか、熟した柿とか、いちじくとか。今になっては、全部を好きとは言えないにしても、嫌いというほどでもないくらいには好感度が上がっている。と言うより、何かに対して絶対嫌いと言うほどのエネルギーがもうないのかもしれない。

 

 今でも嫌いなのは、たとえばカキ。カキに関わらず、貝類は苦手。熱しても歯ごたえのない感じが奇妙で食べられない。それから、リンゴとにらの茎は食べると歯がくすぐったくて食べられない。

 

 でも、こんなものたちもいつか嫌いではなくなるときがくるのだろうか?それはあの研究室でみんなと分け合ったコーヒーみたいに、だれかとの思い出と一緒にやってくるのだろうか。もしそうだとしたら、この嫌いな嫌いなものたちをいつか好きになれる日がちょっとだけ楽しみで、そんなふうに嫌いなものも好きにしてしまうような日々が思い出になってしまう日がくるのが、ちょっとだけ、悲しい。

 

 

 本記事はお題企画「ゲリラブ」の参加記事です。

 今回の参加者の方には、参加記事に「#ゲリラブ二期」をつけて投稿していただいています。ぜひほかの参加者の方のブログも読んでみてください。

 なお、今回のお題は「書き出し固定:好きか嫌いかで言うと」でした。参加してくださった皆さん、ありがとうございました!

 

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