モリノスノザジ

 エッセイを書いています

財布の中まで魂百まで

 エリエールのキッチンペーパーが4ロールで税込177円。財布からお金を出しながら、キッチンペーパーを177円で買えることのありがたみを身体全体で感じている。

 

 何日か前に唐揚げを揚げて、そういえばキッチンペーパーを切らしていると気がついた。仕方なく、新聞紙のうえにティシュペーパーを重ねてから、そのうえに揚げたての鶏肉を並べていく。なんだか前にもこんな感じで、そして、そうしたことを後悔した覚えがあるんだけど…と思いながらも、次々と唐揚げを乗せる。

 後悔とはこれのことだったのだと気がついたときにはもう遅い。油の抜けきっていない唐揚げにティッシュがべっとりとくっつき、くっついたまま乾いてしまった。おかげで先週は毎日ティッシュ付きの唐揚げを弁当に食べることになった。ついでに言うと、油を吸わせて丸めて茶色くなったティッシュを唐揚げと勘違いして弁当に入れていた日もあった。ティッシュ散々である。

 

 そういうわけで、キッチンペーパーのありがたみを改めて感じている。キッチンペーパーと言ったら、唐揚げを並べてもくっつくことはないし、唐揚げに擬態して弁当箱に入り込むこともない。水分もたくさん吸うので、油の処理にも大活躍だ。同じ紙原料で、見た目も似ているからってティッシュといっしょにしてごめん。キッチンペーパーにはキッチンペーパーの、ティッシュにはティッシュの役割があるんだね。キッチンペーパーを買って、私の財布の残金は194円になった。多分。

 

 つくづく、つくづく思うのだけれど、大人という生き物は財布にたくさん札を入れているものではなかったのだろうか。ファンシーショップに売られている子供用の財布は小ぶりでポケットも少なくて、それは明らかに大人と比べて取り扱う金の総量が少ないために違いなかった。実際、それは違いない。

 大人になった私は子どもの頃のお小遣いの十数倍ものお金をひと月に使っているし、札入れだって大きくて収納もたくさんある。でも、そこに入っているお金が多いかと言えばそうでもない。私の財布には常に一万円以下の金額しか入っていない。まあそれも、多分、だけど。

 

 財布の中身を正確に把握していたためしがない。子どものころから気がついたらお金が無くなっていて、妹にお金を借りては怒られていた。「どうして自分の財布の中身を知らないの!?」

 そう言われても、私からすればそれが普通で当然なのである。財布の残高がいくらだか、常にリアルタイムで把握している人(想像できないが、きっといるだろう)は、いったいどうしているのだろう?たとえば一日に一回とか、財布を開くたびにとか、定期的に財布の中身を改めているのだろうか?それとも、頭のなかに高性能な計算機とメモリーが入っていて、お金を使うたびに残高を計算しているのだろうか?

 

 私はそのどちらもできなくて、というかする気もなくて、それも現金と電子マネーを併用するようになってからはかけらしかなかった計画性もすべて吹っ飛んでしまった。私にとってお金は「あるか/ないか」のどちらかであって、いくらある、という概念はない。お金を管理したり、お金のことを考えるのが面倒くさい。そういうわけで、気がついたら財布のなかに371円しか入っていないという事態が生じるのだった。

 

 毎日日経平均株価をチェックして株を売り買いする人がいたり、1円単位で家計を管理する人がいたり、それはもちろん必要に迫られてのことかもしれないけれど、そういう人がいる一方で私のようにお金のことが考えられない人がいるということを考えると、どうやらこれは大人とか子どもとかという問題ではなくて、その人の資質の問題であるようにも思われる。

 そういえば、子どものころからこまめにお小遣い帳をつけている子だっていた気がする。なんだか変わらないものだなあ、と思ってなんとなく財布を開いてみると、2511円しかない。いい歳して給料日を気にする生活を続けているとは思わなかった。

 ところでこれ、やっぱり死ぬまでこうなのだろうか?