モリノスノザジ

 エッセイを書いています

超える

 お酒も飲んでないのに酩酊したような高揚感につつまれて人通りのない道を行く。そういえば、ここ半年ほどでずいぶん効率よく生活できるようになった。寄り道もせずに帰宅して、食事をつくってシャワーを浴びるその手順がおどろくほど洗練され、食後に「どうぶつの森」を起動する時間は日に日にはやくなっている。毎日がその繰り返しだ。

 以前ならたまに出かける予定があったりして、ときどき遅くなる日があるので外食したり、帰り道に駅ビルをふらっと歩いたり、そういうちょっとした無駄が少しはあったものだけど、ここんとこはとんとない。ただ真っすぐ職場から帰宅して、毎晩わざわざ頭を濡らしては乾かして、食べては腹が減っての繰り返しで、まるで工場の作業員がラインをさばくみたいに効率よくこなせるようになった。だから、こういう夜は久しぶりなのだ。

 

 今月は札幌でTGR(Theater Go Round)というイベントが行われている。1カ月間の間、札幌市内8か所の劇場でいくつもの演劇が上演される。例年この時期に行われる恒例のイベントだ。

 

 思えば、予定していた上演が次々と中止になった2月から、いくつかの劇団が手探りで公演を再開し始めた夏を経ても、演劇をめぐる状況は昨年と同じようにはならなくて、だから今年はあまり演劇を観にいけていない。手帳のスケジュール欄がこんなに埋まるのも久しぶりだ。演劇を観たあとの帰り道は、ちょっとだけ以前の生活に戻れたようで、演劇を観て生活に戻ってからのちょっとした気づきや発見のある生活に戻れたようで、少しだけ浮かれる。

 

 演劇は感染症対策の面でなにかと攻撃対象になることが多くて、どの劇場もピリピリしている。入り口前には感覚をあけて並び、入り口で靴裏の消毒と一度目の手指消毒&検温。受付カウンターではチケットを自分でちぎってボックスに入れ、客席に入る前に二度目の手指消毒。客席の数は二分の一に減らされて、最前列の客には要望に応じてフェイスシールドが配られる。観劇後はスタッフの指示に従って少しずつ退席。出口で三度目の手指消毒。もちろん、建物の中ではスタッフも観客も常時マスクを着用していて、公演終了後も二週間の健康観察が設けられる。

  正直ちょっと過剰な気がする場面もあるけれど、過剰なくらいに対策をしなければならない状況に劇場が置かれているという事実も見えてくる。実際、連日公表されるクラスター情報を見ていても、これだけ対策をしていてどうして?と思わせるような事例があることもあって、COVID-19というやつはなかなか手ごわいものらしい。

 

 

 劇場に通うようになってから三年くらい経つけれど、いまだにその魅力がなんなのかうまく説明できない。そこで演じられているのはお話で、それはテレビで見るドラマや映画と何が違うのだろう?コロナ禍において多くの劇団が公演のオンライン配信を試みたけれど、それを見ても劇場で観る熱を感じられないところからすると、演劇の魅力というのはほかでもなく、目の前で役者が演じることにあるような気がする。

 それは間近にいる役者から伝わってくる熱気であり、声の圧であり、またそれとは違ったものでもある。劇場というのは異様な空間だ。客席があり、舞台がある。客席にいる客たちは、舞台上の役者と時間と空間を共有しながら、目の前にある舞台は別の空間であり、自分がいる場所とは異なる時間の流れ方をしていると信じている。時間と空間があるというのは、世界だ。

 

 舞台の上にはこことは違う世界がある。しようと思えばそこへ侵入して舞台をめちゃめちゃにすることもできるのだけれど、しない。観客は客席で、世界の傍観者になる。舞台の上の世界が客席まで侵食してきて、観客がその世界に巻き込まれてしまうことはない。観客は第三者である。

 

 

 一週間前、函館の劇団「演劇ユニット41×46」の『雨の随(まにま)に』という作品を観た。ある会社で、ひとりの社員が退職届を出した。うつ病を患い「もうこの会社にはいられません」と語ったという。ある店に集められた彼女の同僚たちは、上司からその話を聞かされる。そして、どうして彼女が辞職に至ったのかを話し合う。

 同僚たちは毎日一緒に働いていながらまるで他人に興味がない。店に着くなり「今日何時に帰れるかな」なんて言い出す人がいるし、辞めた社員のことを心配するどころか「辞められると私たちに負担がかかる」なんて言ったりもする。同僚たちを集めた上司も上司で、辞めた社員を心配するそぶりを見せながらも裏では「うちのチームからこういう人が出ちゃうと、私の評価が下がるのよね」なんて言う。みんな自己中なのだ。

 

 こうした同僚たちの身勝手な言いように異議を唱える社員が一人だけいる。こんなときに、そういう話をするのは違いませんか?と。でも、私はその様子を見ていて、むしろよくここまで辞めた人のことを話したな、と思った。明日からの仕事の分担をどうしようとか、引継ぎはどうするのとか、チームの一員として働いている身としてはある種当然の反応でもあり、明日からも会社を続けていくために必要なことでもある。まっすぐに会社が進んでいく一方で心を病んだその社員のことを気遣えないのは残酷な気もするけれど、でも「仕方ないよね」と言ってしまいそうな気がする。

 

 そうだ。私たちは「でも、仕方ないよね」と言ってみて見ぬふりをしてしまうことがある。何かが間違っているような気がして、それに気づいていても「かわいそうだけど仕方ないよね」なんて言ってしまう。それを身勝手だとか自己中だと手放しに批判できるのは、当事者でない人間だけだ。私だって、あの話し合いの席に座らされたら同僚たちと同じように身勝手な行動しかできない、と思う。

 

 

 演劇にはときどき、こういう、普段私たちが「でも仕方ないよね」で済ませている、でもよく考えれば理不尽なことのその理不尽さを突き付けられることがある。それは言うまでもなく、劇場において観客が絶対的な部外者であり、舞台の上にある「世界」の傍観者であるからこそ気づけるものだ。

 

 でも、その気づきを私はちゃんと持ち帰らなければならないと思う。私が生きているこの世界に戻ってきたとき、そこで起こっている理不尽なことに気づいたとき、私はやっぱり「でも仕方ないよね」で済ませてしまうのか。傍観者と見ているときには身勝手だとか簡単に言うのに、いざそれが自分の番に回ってきたら、自分はその身勝手をする側を選ぶのか。

 

 劇場において観客は傍観者だけど、その地位は徹底してない。観客と舞台は地続きで、いつだって観客は客席を超えて舞台に出ていける。だからこそ、つきつけられるものがあるように思う。第三者として無責任に批判ができる客席という場所と、自分自身が登場人物となり、自分の問題として問題に向き合わなければならない舞台とは、いつだって行き来することができる。傍観者としての気づきを、自分の世界に持って帰ることができるのか。自分が生きているこの世界で、自分はどんな選択をするのか。それが問われている気がする。

 

 

 私の会社でもひとつ、ちいさな波があった。誰かがやらなければならない仕事があって、でも誰もそれを積極的にはやりたくない。上司は部下たちを気づかっているのかだれにも「やれ」とは言わなくて、部下たちも「指示があればやりますけど」みたいな感じで黙っている。そのうちに上司は「俺がやるよ」なんて言い出しそうで、きっとそうなったらみんな「申し訳ないけど仕方ないよね」「すみません、ありがとうございます」なんて言うんだろう。

 

 私はそういう感じが気持ち悪くて、でも自分が手を挙げるのもなんだなと思って、つまり、他の人たちと同じように見て見ぬふりをしていた。

 だけど、気づいた。あ。私は、あの劇場で、自分勝手な人たちのことを自己中だって批判しておきながら、自分がその場所に立たされたら結局同じ行動をしてしまうんだなって。劇場で得た気づきは生かされず、私は「嫌なやつ」になるんだなって。そうしていろいろ考えて、結局、上司に話した。これは会社がどうとかではなくて、自分に対する責任の問題だと思った。このまま無視していたらきっと、私はまたひとつ私のことを嫌いになると、そう思った。

 

 四日経った。五日前よりも私は、私のことを前よりもちょっとだけ好きでいる。