モリノスノザジ

 エッセイを書いています

切り上げ三十は背伸びがしたい

 「底のほうに粉が溜まっていると思いますから、最後まで飲み干さないほうがいいですよ」と言う店員からホットコーヒーを受け取って、確保しておいた席に戻る。カフェではいつもすみっこだ。出されたものを「最後まで飲まないほうがいいですよ」だなんてめずらしい店員だけれど、実際、コーヒーカップの底にどうしても溜まる濃ーいのって、ちょっと苦手なのだ。だから、そうやって声をかけてくれると残しやすい。

 

 時差出勤のためにはやめに退勤するようになってから、仕事終わりの用事までの間にカフェで時間を潰すことが多くなった。窓際のカウンター席では、おじさんと30代後半くらいの女性がふたりで英会話の練習をしている。夕方のカフェではわりと見かける光景だ。そして、どのペアもだいたい同じような組み合わせをしている。

 

 「いやー、もうヤバいって。四捨五入すると三十だから」

 その声を耳にして、こっそりと視線を向ける。唇にくっつけたマグカップ越しにそこを見ると、大学生とみえる青年と、その先輩らしきスーツ姿が話をしていた。大きなテーブルが今は一席おきに座るかたちに制限されていて、彼らはテーブルをはさんで斜めに向かい合っていた。ああ、こういう組み合わせもたまに見るな、と思った。そして、この場面でスーツ側にあたるほうがそんな話をするのも、なんだかあらゆるところで見てきたような気がする。

 

 勝手に耳に入ってきたスーツの声が語るところによると、彼は二十代半ばで、その歳にして急に体力の衰えを感じているらしい。まじで、25歳超えるとガクッと来るからね。そう彼は言う。そして、若いっていいなーなどと大学生の若さをほめたたえ、それを聞いている大学生の側はと言うと、ただ頷いたり、そうなんですねと大げさに驚いてみせるしかない。だって大学生はこれから歳をとっていくわけで、それを経験していない以上ほかに反応のしようがないのだ。

 

 こういった類の「もう歳だわー」トークってわりあいいろんなところで繰り広げられているような気がするのだけれど、二十代にして「もう歳だわー」と話す様子をみるとなんとなく鼻白む気分だ。もしかしたら彼の老いがそうとうにスピードがはやくて、とっくに三十代を迎えている私よりもずっと身体の衰えを感じているのかもしれないけれど、個人的な感覚で言うと二十代はまだまだ十分に若い。へこたれている場合ではない。

 

 同じ「四捨五入したら三十」と言っても、私と彼では事情が違う。私は三十にはみ出た分を捨ててやっと三十になるのに対して、彼は三十に足りない分を積み足すことで三十になるのだ。それは背伸びで、二十代半ばにして「歳だわー」と言ってしまう彼のそれも、言ってみればある種の背伸びに過ぎない。

 

 

 大人は、大人になっても背伸びをしたがるものだな、と思う。そして、どうやら大人にとって背伸びというのは「大変だ」と語ることなのではないかと思うこともある。いくつになっても自分のことを「おじさん」だとか「じいさん」だと言って心身の衰えや流行についていけない自分を卑下したり(実際のところ歳を重ねることは劣化ではないのだけれど、この場合に関しては卑下と言っていいと思う)、結婚はつらいと言ってみたり、残業時間を競ってみたり。そういう私も、久々に会う友人と話すのに「仕事?楽だよ」とは言えずに「まあ、ぼちぼちかな」なんて言ってしまうあたり、人のことは言えないのだけれど。

 

 

 年下の人に対して、未来に不安を抱いている人に対して、私はどんなことを語ってきただろうか?たしかに歳をとるというのは少しずつ何かを失うことでもあり、最近の私は時々自分が今何を話したのかわからなくなる。敬語で話しているつもりが、うっかりタメ口がこぼれたような気がして言い直したり、ちょっとした言い回しがどうしても思い出せなくて、しばらく黙り込んでしまうこともある。「おじいさん、お昼はもう食べましたよ」なんて言われるのもそう先じゃないかもしれない。

 

 けれど、私にとって大人になるということは総じていいことだし、これから大人になるひとが、その人が将来を不安に思っているのだとしたら、そういうことを伝えられたらいいと思う。誰だって大人になることを避けられはしないのだから、いい気持ちで大人になれるほうがいい。世の中というのは意地悪な大人が脅すほど厳しいものではないし、なんとかなるし、たくさんの出会いもある。

 

 ま、だけど、このカフェでは大学生の話し相手は背伸びのスーツなのだ。コーヒーをズズっとすするとカップの底に濃い茶色の三日月ができて、それは店員さんの言うとおりずいぶんと苦かった。