モリノスノザジ

 エッセイを書いています

日常とか非日常とか

 それなりに悩んだりもしたのだけれど、なにしろ未だ未知の部分が多いウイルスのことだ。誰も本当の正解なんて知りようがない。その意味においては、できうる限りのことを尽くすことを前提としたうえで、そのうえでのGOサインを出すのか出さないのかの判断は最終的に自分で下すしかないような気がして、結局、いくつかのルールを決めて旅に出ることにした。

 

 トイレの後には必ず石けんで手を洗うこと。飲食時には必ず手を消毒すること、ちょっとチョコレートをつまむとか、そんなときでも。それから、ホテルの部屋にいるとき以外は常時マスクを着用すること。不特定多数が触れるものにみだりに手を触れないこと。公共施設のトイレを使用するときには可能な限り便座を除菌すること。当日体調が悪い場合は無理せず旅行を取りやめること。などなど。
 でも、心配なんかしなくてもそこら中に消毒用アルコールがあふれていて、今回の旅では本当に数え切れなくくらい手の消毒をさせられた。

 

 横浜に行くのははじめてだった。海沿いの開放的な、でも、瀬戸内海の島だとかとは違う男性的でどっしりとした街並み。群れるデジタルサイネージに、ビルとビルをつなぐ動く歩道橋の動く道。み、未来だ…とつぶやきつつちょっとばかりホテルの近くを散歩して、中華街にも山下公園にもランドマークタワーにも入らず、コンビニでパスタとチーズを買って部屋に引きこもる。コロナ下のこのご時世とはいえ、せっかく旅行に来た横浜でホテルに引きこもるだなんて、つくづくつまらない人間だなあといつも思う。

 

 けれどよく考えてみれば、普段からアクティブに行動していない人間が旅先で突然アクティブになれるわけもない。カフェに行ったことがない人が旅行だからといっておしゃれなカフェに入ることもないし、普段から外食もせず、できるだけ早く家路につくことを目標にしている私が、夜の横浜をアクティブに楽しめるわけがないのだ。
 だから、旅先をアクティブに楽しみたいなら日常から一日を終わりまで楽しみ着ること。…ってこれも、旅行に行くたびいつも思うことなんだけど、いつも思うってことはつまりそういうわけであって、日ごろからノンアクティブな生活を過ごしている私は旅先でもやっぱりノンアクティブで、ホテルの最新式テレビでYouTube動画を再生したりしてダラダラ過ごすのだった。

 

 日常じゃないこともある。今回の旅の目的である横浜美術館で、それはもうたっぷりと滞在した。ヨコハマトリエンナーレ。VTRを使用した作品がいくつもあって、それをひとつひとつ見ていくとそれだけで時間がかかる。中には1本で60分近くある作品などもあって、そのうえそれはあくまでも作品の一部でしかないのだ。これはちょっと、きりがない。

 

 YouTubeでは広告を飛ばし、Twitterは流し見し、普段は30分刻みの細かいスケジュールで行動している私が、この、いつ終わるかわからないVTRを黙ってみている。それも、わかりやすいものばかりというわけにはいかない。話している内容は理解できても、それを通して作家が何を伝えようとしているのか、簡単にはわからない。同じ話を何度も繰り返したり、無駄に思えるような言葉もご丁寧に編集してくれたりはしない。要するに「よくわからないもの」をただ何十分もひたすら見続けていて(それはVTR作品に限らないけれど)、ああこれは、この時間は明らかに非日常だと感じた。

 

 結局会場には朝10時から夕方16時までの6時間いて、その間は水しか飲まなかった。いつものことだけど、いつものことである。私は食事にも興味がないので、放っておくとこうなってしまう。そろそろ歳だからいつか倒れるのではないかと思う。羽田に向かうバスのなかで、コンビニで買ったベーコンチーズパンをむさぼったのだけれど、そのあとも満腹なんだか空腹なんだかよくわからない状態が続いて、家に着くまでにおにぎりやらチョコレートやら干し芋やらを食べ続けたあげく、帰宅してからもラーメンを食べた。

 

 旅はふしぎだ。しょせんは日常の延長線上でしかないと思わせるような場面もあれば、明らかに非日常と思えることもある。もしかしたら、浮かれていたのかもしれない。旅先でだって、いつもと同じようにきちんと三食食事をとって、普段と同じ時間に寝て、ブログを書くこともできる。それができなかったのはやっぱり、旅への期待というか、わくわく感みたいなものに浮かされていた部分があったのかもしれない。

 

 予定されていた様々な展覧会がコロナでなくなったりして、でもそれって、オンライン開催とかできないの?って思ったりもしていた。実際、現地開催を取りやめてオンラインで作品を観るように方針を変えたイベントもあるようだ。けれど、こうして横浜へ行ってヨコハマトリエンナーレを見てみると、横浜という街に実際に行き、美術館の外で見聞きしたすべてを含めた全体がヨコハマトリエンナーレの思い出になるようにも思えてくる。そして、いったん日常とは切り離されたところに行くからこそ作品に集中できるという面もあるように思う。

 

 むやみに感染を広げるのはよくないこと、だけど、他のものでは代替できないものもある。それは日常であり非日常でもあるような、そんな経験が前みたいに気軽にできる日が、できるだけはやく来ればいいのになあ、と思う。