モリノスノザジ

 エッセイを書いています

濃厚接触のはじめかた

 眼鏡を外したら美少女だった、というのは物語では定番の展開だ。実際のところ眼鏡のレンズは透明であって(事情があって色付きのレンズをはめている場合もあるだろうけど)、透明なレンズを通していつだって素顔が見える。だから、漫画に出てくるようなジャム瓶の底みたいなとんでもない厚さの眼鏡でもかけていないかぎり「眼鏡をかけているから素顔がわからない」とか「眼鏡をかけているせいで容姿が劣化?する」ということはないはずだ。

 だけど、どうも世間一般ではそうじゃないらしい。なにかの集団的思い込みか、はたまたコンタクトレンズ業者の広告が人々の意識の奥深くまで浸透して離れなくなっているのか、眼鏡はダサいというイメージを多くの人が共有している。ダサい、というのが言い過ぎにしても、多くの人にとっては、その人がもともと持つ魅力を損なうような存在である。くらいのことは言ってもいいと思う。ということはつまり、普段見慣れているはずの異性が眼鏡を外したとき、「えっ?意外と素敵…」ということが起こりうるということだ。漫画やドラマのなかだけじゃなくて、この現実世界でも。

 

 「眼鏡を外したら顔がいい」パターンがすりきれるほど使い古されてきた定番だとすれば、今、新しい恋の落ち方が生まれてはいないだろうか。そう。「マスクを外したら顔がいい」パターン。あるいは「マスクをしたら顔がいい」パターンだ。

 

 自慢じゃないが、私はかつて恋人に外見を褒められたことがある。もう5年以上前に別れた恋人だ。元恋人によると「淳は鼻から下以外はいい」だそうだ。痘痕があろうが何があろうが、恋人なら顔面まるごと愛してほしいものだけど、ともかくマスクが標準装備になったこの頃の状況が、私にとって有利に働くことは間違いない。私は私の顔面のなかで足手まといになっていた下半顔をマスクで隠し、上半顔だけで勝負することができるのである。それも、自然に。一切の怪しさなく。

 

 同じようなことが巷でも起こっているに違いない。これまで足手まといな下半顔に邪魔されて恋の機会に恵まれてこなかった男女が、コロナ禍によって本当の愛にめぐりあう。見た目は入り口に過ぎない。マスクで半分隠れた顔。その顔がふたりを出会わせ、やがてふたりは恋に落ちる。水族館も図書館も、デートはずとマスク付きだ。いつか一緒に食事をとるようになったふたりは、そのときはじめてお互いの素顔を見る。あ、あれ。ちょっと想像と違った。でも問題ない。彼らの間には、すでにこれまでの逢瀬で築いた本物の愛がある。ここまでこれば、赤の他人にとっては欠点にしか見えないような特徴も、なぜだかとても愛おしい。これが、コロナ時代の新しい恋の落ち方だ。

 

 マスクをつけたまま恋に落ちたふたりが、どうやってマスクを外し、互いに消毒とか気にしないようになって、初めて手をつないで、どうやって初めてのキスをするのか。想像するととても楽しい。

 家族で共用している便座を毎回消毒する人は(この状況でも)あまり多くはないと思うし、家族で住む家のドアノブを触るたびに殺菌する人もそれほど多くはないと思う。一方で、他人との接触に関しては緊張を強いられている。誰かが触る可能性がある扉は肘で開けるようにするとか、買い物のお釣りもトレー経由で受け渡しするとか。他人の側がどんどん遠くなっていって、<家族>や<恋人>のような親密な存在と、<他人>との間の距離は離れるばかりだ。そこから一歩<親密>の側に歩みを寄せるのは勇気のあることだと思うし、ためらいもあるにちがいない。そこには、これまでの恋愛にはなかった、なにか緊張感のようなものがある気がする。そして、それを乗り換えたふたりは言うのだ。「濃厚接触…しちゃったね」。

 

 きた。私がいきいきする時代が来たのだ。「眼鏡をはずしたら美少女」のように、「マスクをつけてたら顔がいい」から恋をはじめる。普段ならなるべく目を合わさないように通り過ぎていた鏡の前に堂々と立つ。マスクをしたまま、そこにいるはずの「いい顔」を見るために、しっかりとのぞきこむ。そこには、マスクと眼鏡で顔面を完全に覆ったよくわからない生きものが映り込んでいた。