モリノスノザジ

 エッセイを書いています

エロス紙一重

 電車に乗るとときどき、とんでもないものに出くわすことがある。空いた休日のロングシートで堂々と絡み合っているカップル。肩にかけた荷物のせいで、胸元が無防備なおねえさん。気づいているのかいないのか、会話に夢中になるうちにミニスカートの中身が丸見えな女子高生。

 こういうものに出くわしたらどきどきしてしまいそうなものなのに、現実にはげんなりすることの方が多い。エロスと下品は紙一重で、現実の場合はどちらかというと〈下品〉の側に振れることのほうが多いような気がする。自分の目の前で、日常生活の場の延長線上にそれがあることの生々しさからくるものなのだろうか。けれど、中にはその下品さこそがエロいのだと主張する人もいるかもしれない。エロスと下品は紙一重なのだ。

 

 そういったちょっと目をそらしたくなるような場面に出会ったときに不思議なのは、内心(マジか…)と思いつつも、どういうわけかこっそり見てしまうことだ。見苦しい、やめてくれなんて思いながらも、ちらちらと視線を向けてしまう自分がいることに気がつく。むしろ本当にエロいものに出会ったときにはびっくりして目をそらしてしまうんじゃないだろうか。それとも、映画のうつくしい濡れ場シーンを見るときのように、エロいのはエロいのでうっとりながめてしまうものなのだろうか。

 

 「エロい」という感覚はまぎれもなく性的な欲求と関わりがあるものだけれど、私たち人間はモロに裸体を見せつけられるよりもむしろ、それが隠されているほうがより興奮するという不思議な特性を持っている。電車の車内で、衣服の隙間から無防備にさらされる胸の谷間や下着を見て嫌悪感を感じ、もっと別な場面でエロスを感じてしまうのは、こういった人間の性によるものかもしれない。

 

 エロスを感じる別の場面ということで言うと、ここのところはマスクが一番だ。マスクはエロい。本当にエロい。

 

 基本的に平面である布を、立体物である身体にフィットさせるためにいかにして工夫するか、と言う問題は、古来から人が衣服をつくるときの課題であったに違いない。そしてそれは、マスクについても同じことが言える。顔という凹凸にしっかりフィットするよう念入りに設計されたマスクは鼻周り・頬・顎など隙間なく密着してそれはみごとなものだけど、マスクは基本的に既製品を着用すること・サイズ展開がさほどないこともあって、なかなかそういうわけにはいかない。ギャザーを寄せても頬にわずかな隙間ができたり、鼻梁の横から鼻息が漏れたりもする。

 

 そしてその隙間こそがエロスの素なのだ。顔の側面にできるギャザーの隙間から、ほんの一瞬、マスクに包まれた唇がみえる。それはほんの一瞬、女性の斜めやや後ろから特定の角度でとらえられるもので、正面から見たときには当然キャッチできない。その一瞬にとらえたマスクのなかの唇に、どうしようもないような気持ちでいっぱいになる。目が離せなくなる。でも、その一瞬を通り過ぎるともうそれは見えない。見られない。

 本来であれば唇は露出しているものだ。半年前まではみんな丸出しで歩いていた。それが、ここのところの感染対策でみんながみんなマスクをするようになり、唇の希少価値が上がった…というわけではないと思うけれど、とにかく隠されているものはエロいのだ。それは下着と同じように。

 

 エロスと下品は紙一重。というのはマスクも同じだ。下半身丸出しで街を歩けば通報されるのと同じように、隠された唇がエロい一方で、本来マスクに覆われているべき部位を無邪気に露出しているのは好ましくない。このご時世でまだマスクのつけ方がわからないのか(それともどうしてもずれてしまうのか)、口だけをマスクで覆って鼻を露出している人がたまにいるけれど、私はあんまりそれが好きじゃない。エロスと下品は紙一重である。でもどういうわけか、そういう気に入らないものに限って思わず目が行ってしまう。でも違う。そうじゃない。それがカッコいいとかオシャレだとか思ってみているわけじゃないんだ。どうかそれは、マスクの中にしまっておいてくれ。