モリノスノザジ

 エッセイを書いています

第三の腕の男

 坂井(仮名・28歳)の朝は、同棲中の彼女が手作りした弁当を持って玄関を出るところから始まる。近所の勤め先まで自転車で通う彼女と並んで通りを歩いて、駅近くの交差点で別れるのが日課だった。交差点でなかなか青にならない信号を待ちながら、去っていく彼女の自転車に貼られた駐輪シールを見送ったものだった。駐輪シールは彼女が高校生のときから貼られているもので、自転車もシールも同じくらいぼろぼろなのに、いまだに彼女はそれに乗っているのだった。もっとも、感染症対策のため坂井(仮)が早めに出勤するようになってからは、彼女が乗る自転車を見送ることもなくなったのだけれど。

 

 自転車で出勤する彼女に時差出勤は関係ないけれど、彼女が自分の出勤時間に合わせて早起きしてくれていることを、坂井はすこしだけ心苦しく感じていた。新型コロナウイルスが、すこしでも早く収まれば。彼女はあと60分余計に眠り、朝は毎日一緒に歩いて出勤することができる。そう思っているさなかにも、駅のコンビニから無防備に口をさらした高校生が大声でしゃべりながら歩いて出てくるのを見て、坂井(仮)は心の中でちいさく舌を打った。周りを見渡すと、何人もの人たちが駅の入り口に吸い込まれていくのが見える。混雑を回避するための時差出勤のはずだが、などと思いながら、わだかまりを晴らすように速足で通行人を追い越して歩いた。

 

 そして、そんな坂井(仮)に毎朝歩道で追い越されているのが私である。

 

 

 毎朝自転車に乗った彼女(?)と通勤している男がいることには気がついていたのだが、ここのところ一人で出勤するようになってからというもの、坂井の様子がおかしい。とにもかくにも私に出会ったら追い抜かさずにはいられないとでもいうような感じで、毎朝毎朝猛烈な早歩きで私を追い抜いていくのである。だれとすれ違った、だれに追い抜かされたなんて普段はまったく気にもとめないのだけれど、こう毎日ムキになって追い抜かれるとなんだか変な気分になってくる。あるいは、毎日仲がよさそうに彼女と出勤していた坂井への嫉妬がそう感じさせているのかもしれないけれど。

 

 とにかく、毎朝私を追い抜いていい気分になっている(たぶん)彼に対して、なんとか一矢報いてやりたい気分になった。これまでに試みた結果をもとにすれば、彼の速足に速足で対抗して追い抜かれないようにするというのは無駄な努力だ。なんてったって、とにかくヤツは歩くのが早いのである。そんなに背が高いわけでもないのに。そこで、私は彼を利用することにした。便利な、第三の腕として。

 

 家から、そして私と坂井の通勤ルートの合流地点から歩くと、ほどなくして押しボタン式信号の交差点にさしかかる。一緒に出勤していたころの坂井と彼女が朝別れる、例の交差点である。 

 この押しボタン式信号というやつが私は苦手だ。急いでいるときにはすぐに道路を渡りたいのに、押しボタン式信号の場合はかならず待たなければならない。普通の信号であればたまたま青のタイミングで渡れることがあるけれど(同じくらいの確率で赤信号にあたって待つということでもあるのだが)、押しボタン式信号の場合は絶対に待つ時間ができるのだ。数メートル先にあるあのボタンを、遠くから腕を伸ばして押すことができればと、何度考えたことだろう。でも私に伸びる腕は必要ない。なぜなら、坂井が私の代わりにボタンを押してくれるからだ。

  合流後猛スピードで私を追い抜いた坂井は、そのまま私の前を歩いて例の交差点にたどり着く。そして、信号の押しボタンを押す。坂井に追い抜かれた私は、坂井との間の距離を一定に保ちながら歩き、信号がちょうど青になったところで交差点にたどり着く。結果、すこしも待たずして押しボタン式信号を渡ることができるというわけである。坂井は私を追い抜いていい気分になっているかもしれないが、勝ったつもりでいて実は私に利用されていたのである。

 

 …なんてことを考えながら駅からの帰り道を歩く。朝は毎日見かける坂井も、夕方は一緒にはならない。毎日残業してるのかもしれないし、会社の場所が遠かったり近かったりするのかもしれない。まあいい。というかとてもどうでもいい。例の交差点の押しボタンを押して、信号が青になるのを待つ。青になった横断歩道を私と私以外の何人かが一緒になって渡る。坂井を第三の腕として使っている朝とは打って変わって、私がみなさんの第三の腕になっている。まあそんな人たちに利用されてるだなんて思うわけもないのだが。だから、実際のところ私は毎朝坂井にたんに負けているって、そういうことでしかないんだけどね。