モリノスノザジ

 エッセイを書いています

花の矜持

 紫陽花が好きだ。こんもりした緑の葉っぱに、白や水色の小さな花。意外と公園なんかにも雑に植えられていて、梅雨時期に花が咲いているのをみつけてはじめてそれと気がつくこともある。紫陽花をうつくしくしているのはなによりもあのガサツな感じの大ぶりな葉で、可憐なようでいて簡単にはへこたれないような凛とした強さを感じる。それに、花屋に並んでいる花のなかでも紫陽花は、自分のことを自分できれいだとは思ってなさそうで、それだけでなんか好感が持てる。

 

 花屋で紫陽花が売られているのをみつけたときは、だから、買えばよかったんだ。おおぶりな紫陽花の、なんていうの?花のかたまり。それが枝先にひとつふたつついたのが何本か束ねられて300円くらいで売られていて、でもその日は買い物帰りで荷物を増やす余裕がなかったので買わなかった。その日以外、紫陽花は鉢でしか売られていない。鉢も鉢で、家に連れ帰ったところで越年できるんだろうか?なんて現実的な心配のほうが花をめでる心に勝って、とりあえず花屋の店先にならんだ鉢を通りすがりにながめている。このあいだまでは鮮やかな青や紫を咲かせていた紫陽花も、6月も終わりになってとうとうすこしずつ色あせてきた。

 

 そうなると私は、枯れかけの花に値札をつけて置いておいて、いいの?売れるの?なんて思ってしまうのだけれど、その枯れかけの紫陽花は一枚一枚の花弁のふちから色がこぼれていくようにグラデーションを描きながらすこしづつ色あせていくようで、それは満開のときに劣らずうつくしいのだった。かつてのみずみずしさこそないものの、あいかわらず枝の先までぴんとして、葉っぱもふさふさとして、それはまるで枯れゆく紫陽花の最後の矜持が表れているような咲きぶりだった。

 

 名前も知らない花を買うことがある。どんな枯れ方をするのか想像がつかなくて、それを見てみたいと思うからだ。花屋で売られているときにはみんなそろって同じくらいきれいな花たちも、それぞれ違った枯れ方をする。部屋に活けて何日か経つとへんにょりしてくるのや、日に日にだらしなく花びらが開いてきて、ついにはすべての花びらを散り落してしまうもの。気がついたらパリパリに乾いているの。まったく姿を変えないまま、ひっそりと茎からカビているの。そのそれぞれに、その花の生きざまとでもいうのか、なんかそういうのを感じるような気もして、だから私はうつくしい盛りの花を眺めるよりも、花が枯れていくところを見るのが好きなのだ。