モリノスノザジ

 エッセイを書いています

Your name is,

 こんな調子で大丈夫なのかねとはもともと思っていたけれど、新型コロナの影響で外出自粛が呼びかけられるようになってからは、より少なくなってきている気がする。電車の中吊り広告。この頃はすこしずつ戻ってきたような印象もあるけれども、こうしてぼーっと眺めている座席上部の壁面は、見渡す限りまっさらだ。白い縁取りの枠だけが残った壁を見つめながら、私はじっと名づけのことを考えていた。

 

 生まれてきた子どもに親がはじめて贈るものが名前だ、なんていうのを聞いたことがある。出生届は出生後14日以内に提出すればよい。だから、名づけの前に親が与えられるものなんてたくさんあるような気もするけれど、この言葉はきっとそんな野暮なことを言いたいわけじゃない。言いたいのは、名づけっていうのは子どもにとってそれくらい重大で、その後の人生に大きな影響を持つ出来事だということだ。

 そう考えると、やがて生まれてくる子どもに名前をつけるという行為の重大性にやや気が重くなってくる。名づけという行為がここまで重大な責任が負わされる要因は、子の名前を他人である親がつけるということ、そして、一度つけられた名前は原則として生涯変更することができないということにある。

 

 かつて、ある種の名づけが「きらきらネーム」という言葉で揶揄されたことがあった。極論を言えば、ある名前が「きらきらネーム」と目されることになろうと、その名前をつけられた本人さえ納得しているのであれば問題ないとも言える。問題は、名づけは名付けられる本人の同意なしに、他人(親)によって行われるということにある。子どもは自我が芽生える前に親によって名前をつけられ、その後いかに異議申し立てをしようとも、その名前を変えることは(基本的に)認められないのである。

 

 読み取り機にIC乗車券をかざして改札を抜ける。ぱらぱらと人が行き交う駅を抜けて外へ出ると、夕方なのになんだかムシっとしていて、思わずマスクのすそを指で持ち上げた。道路の向こうに見上げるビルは、まだうっすらと明るい空を背負って看板を光らせていた。

 「きらきらネーム」という言葉がある一方で、「しわしわネーム」という言葉がある。現代のおじいちゃん・おばあちゃん世代がつけられたような、古風な名前を指すようだ。ここ数年はそういった名前が「日本人らしい」「色あせない良さがある」と好意的に受け止められることもあるようだけれど、それがいつ「古臭い」になるかはわからない。そもそも、きらきらネーム自体がそうした旧来の名づけに対するカウンターなのかもしれない。要するに、今子どもにつけた名前に対する印象は、これから子どもが生きていくうえで変わってくる可能性がある。それを、親は子どもが生まれた後わずか14日で決めなければならないのだ。本屋にあれだけ名づけの本があるのも頷ける。名づけは難しいのだ。

 

 個人的には、古風な名前、万歳である。生まれてくる子どもが男の子なら「太郎」をつけたい。そうだな、ショウタロウとかリンタロウとか…。あんまりそれが古すぎるというなら「〇〇太」はどうだろう。思いのほか平成・令和生まれでもいるような気がする。多少古めに見えようと、古風な名前は実直そうな感じがして好きだ。しかし、最近は犬とか猫にちょっと人のちょっと古風な名前をつけるのも流行っているから、ペットの名前ランキングも気にしなきゃならないな。公園で子どもが遠くからだれかに呼ばれたと思って振り返ったら、それが柴犬の名前だったなんてことがあったらかわいそうだ。

 女の子ならだんぜん「まどか」がいい。漢字で「円」でもいい。なんてったって、円満の「円」、大団円の「円」だ。しかし「円」が通貨を連想させるというならひらがなでもいい。「まどか」に関わらず、平仮名の名前のやわらかさはとてもいい。「ゆかり」とか「あかり」もいい。…それだとふりかけになっちゃうか。一時期だと「まどか」なんて名前をつけたら「お父さんかお母さんがアニメ好きなの?」なんて聞かれたかもしれないが、私の子どもが生まれるころにはそろそろセーフなのではないか。そもそも私はまどマギを見たことすらない。

 

 スーパーの入り口でかごを手に取って野菜コーナーを歩く。ふと果物が食べたいような気がして、特売のキウイの前に立ってみる。きいろのとみどりの。よく見ると、袋入りで買うより小売りをまとめ買いする方が安そうだ。ためしにキウイをひとつつかんでみると、黄色いキウイはあまり剛毛でなかった。

 そういえば、男女問わず、ここ最近は二文字や三文字の名前が流行っているみたいだ。でも、その傾向もいつまで続くだろうか。…といっても、いったん子どもに名前をつけたら最後、子どもはその名前と死ぬまで付き合っていくことになるのだ。世の中のひとたちがみんな数年おきに名前をバージョンアップするのに、この子だけができないというわけでもない。名前が古臭くなるのと同時に、その古臭い名前をつけられた世代も一緒に年を取っていく。名づけが責任を伴う行為であることは間違いないけれど、これからの世の中がどう変わっていくかわからない以上、親は子どもに名前をつけたあとは、その名をつけられた子どもという舟がどう流れていくか、ただ見守るしかできない。そして、それでいいのだ。

 

 会計を済ませて、エコバックに豚小間のパックとキウイを詰めていく。サッカー台の向かいでは、小学生がアイスクリームの包装をはがしてその場でかぶりつくところだった。数日前から「出口専用」と「入口専用」に分けられた出入り口の扉を押して外に出る。通りの花屋にはやけに人が群がっていて、人波をかき分けるようにして横断歩道に出た。銀行の電光掲示板がきいろい文字で時刻を示している。そうしていくつかの横断歩道を渡り、何人かのひととすれ違った。そのあいだも私は子どもにつける名前のことを考え続ける。そして、気がつけば緑色の重たい玄関ドアの前にいた。ちなみに、私がちかぢか子どもを授かる予定は、これといってない。