モリノスノザジ

 エッセイを書いています

風船はシャツで結んで

 人間はこころとからだのふたつでできてるんだ、って考えは私たちを捉えて離さない。実際のところどうなんだろう?よくわからないけれど、もし人間がこころとからだでできているのだとしたら、私をかたちづくるもののうち「からだ」が占める割合はとても低いと思う。運動なんてほとんどしないし、さほど食欲もないし、性欲も皆無だ。私にとってからだはただ、このこころを乗っけてうごきまわるための乗り物でしかない。

 

  私は、旅行から帰ったあとに体調を崩すことが多い。きっと、旅先でろくな食事をしないからだと思う。ご当地グルメこそが旅の醍醐味、という人もそれなりにいるのだろうけれど、私は香川に行っても讃岐うどんを食べず、島根で出雲そばも食べないどころか、食事そのものを抜いてしまうことがある。気がついたら食べるタイミングを逃して昼を抜いたのがはじめてだったと思うけれど、それからなんとなく旅先で食事を省略するのが癖になってしまった。

 朝は客室のケトルでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲むのが好きだ。食事を抜くのは主に昼で、慣れてくると「昼抜きハイ」さえ感じることもある。歩いていくうち、あるとき急にからだが軽くなる瞬間がある。軽くなる足取り。このままどこまでも歩いていけそうな、そんな気持ちになる。

 

 三食抜くわけにいかないのは、そんな「昼抜きハイ」が長くは続かないからだ。日が沈み始めるとともにだんだん足取りが重くなる。いや、脚そのものが、からだ全体が岩のように重い。肩や腰はひびが入ったように痛む。重たいからだをどうにか引きずって美術館をはしごしても、瞼はつるつる釣り下がってくるし、集中したいのにまったく集中できない。からだはこころを運ぶ乗り物だったはずなのに、ときにこころのはたらきを鈍らせる足かせになる。ああこんな重り捨ててしまって、こころだけでどこまでも飛んでいければいいのに。

 

 そんな気持ちでいながら、それでもなおこころをからだにつなぎとめているものがあるとしたら、それはきっと衣服だ。どんな服を着ようとか、こんな服がほしいとか考えるとき、私のこころはとてもからだに近いところにある。

 といっても私は特におしゃれなわけじゃない。けれど、人並みにおしゃれに見られたい欲求はあって、気に入った形のシャツが見つかるまで何時間も店を歩きまわったりする。高価な服はいらないけれど、自分が納得のいく服を着ていたいし、流行からも外れたくない。服のことを考えている間だけは、自分のこころがものすごく「からだ」の側に近づいてきているのを感じる。

 

 いつか私が洋服にも興味を持たなくなったら、私のこころは風船みたいにどこかへ飛んでいってしまうのだろうか。からだの側にある一切を気にせずに、ただからだを操縦して見たいものを見て、考えて暮らす。そのとき私は今よりずっと自由になれるのかもしれない。自分の見た目とか服装とか、他人の目なんて煩わしいものを、気にせずに暮らせるようになる。――そう考えると、風船が飛んでいってしまうのもそう悪くはないような気がするけれど、自分の理想どおりの服を見つけたときのほのぼのとしたうれしさを思いうかべて考えなおす。もうすこし風船はこのままでいいかも。