モリノスノザジ

 エッセイを書いています

偽の事実がうまれるところ

 そういった場面をまのあたりにしたときに、あのときのことがふっと頭をよぎる。(またか)と思う。それもここのところ頻繁である。それは残念なことで、つまり私はだいたい一日おきくらいの感覚で失望している。

 

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 夏になりかけのいつもの朝のことだった。その日は北海道にしてはめずらしく、一日の最高気温が30度を超えることが見込まれていた。朝、職場にかかってきた電話を取ると、電話先はとあるテレビ局の取材クルーだった。

 「失礼ですが、そちらは既に冷房を入れてらっしゃるでしょうか」と記者は尋ねた。
 私は「冷房は入れておりません」と答えた。「社内の規定で、室内温度が28度を超えた場合に冷房を入れています。今日はいまのところ、どのフロアもだいたい26度を下回る程度ですので、今冷房が入っているフロアはありません」。

 すると記者は「今日は北海道でも最高気温が30度を超える予報となっています。おそらくお宅でも今日中にどこかのフロアで室内温度が28度を超えると思われますので、取材に伺ってもよろしいでしょうか」と尋ねてきた。社内での取材に関しては、お客様の姿やデスクの上の個人情報が映り込まない限り認めてよいこととなっている。私が承諾の旨を伝えると、30分もしないうちに取材クルーがやってきた。

 

 しかし、昼を過ぎてもなかなか室内温度は上がらない。「今日は思ったよりも涼しいので、冷房を入れずに済むかもしれませんね」と声をかけると、記者は困った様子で「事務所の中が暑くって、冷房が入ったところをニュースに使いたかったんですけどね」と言う。私は「でも、今日は涼しいのでどのフロアも冷房を入れる必要はないと思いますよ」と伝えたのだけれど、記者はあきらめず社内に残り続け、昼過ぎに室温が28度を超えて空調が作動した事務所3Fの様子を映像に収めると、満足そうに帰っていた。

 

 帰宅してテレビをつけると、ニュース番組がやっていた。そこにはわが社の事務所の映像が使われていて、アナウンサーが「今日は北海道でも気温が上がりました。〇〇市内のこの会社では、今季初めての冷房が入ると、社員たちから『涼しい』と声があがりました」と説明していた。

 なんだか納得がいかない話だ。たまたま3Fで室内温度が28度を超えたとはいえ、それは記者が一日社内に詰めていたうちのその場所・その時間だけである。取材クルーは「今季初めての冷房が入ると、社員たちから『涼しい』と声があがりました」というニュース原稿に合うような素材を集めていただけではないのか。

 

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 そういう目で報道番組を見ていると、同じように疑わしい報道はたくさんある。たとえば、ちょうどいま日本にやって来ている台風のことだってそうだ。台風が過ぎ去ったらどんな内容の報道がなされるのか、だいたい想像はつく。どこどこで停電したとか、どこで冠水したとかいう情報のあとにインタビュー映像が流れて、インタビューされた人はどこかで聞いたことのあるようなありきたりなコメントを述べるのだ。台風19号が日本に甚大な被害を及ぼすことはもう決まっている。それに合う素材を、メディアは集めるからだ。

 

 台風や地震や、その他ニュースで報道されるような重大な出来事が起こったときに、それによって重大な被害を受ける人がいて、そのことも事実であることに間違いはない。それに、災害のある段階においてはある特定の部分に集中して情報を伝えることが必要な場面があることや、そもそもメディアが何か起こっていることのすべてを伝えるということはできないし、それが使命ではないことも理解している。言いたいのは、メディアやSNSが見せるのはすべてではないということだ。

 

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 先月末に瀬戸内国際芸術祭に行った。タイトな日程のせいであまりたくさんの作品は見られなかったのだけれど、それでもすごく満足している。

 左下の写真は本島というところに展示されている「水の下の空」という名前の作品。私は、宙に浮かぶ船の高さにある架空の水面と、地面に敷かれた黒っぽいビニールに映り込んだ〈空〉とのことを念頭につけられたタイトルだと解釈した。実際のところこんなふうにきれいには空は映り込んではいなくって、作品のまわりを歩きながらそれっぽく見えるポイントを探した。写真を後で見てみると予想以上にきれいな空色のビニールになっていて、自分の解釈が写真のなかで形になる面白さを感じた。

 

 9月中頃にはあいちトリエンナーレを見に行ったのだけれど、こちらでは一枚も写真を撮らなかった。感動したり、深く考えさせられた作品はたくさんあった。すばらしい展示会だと感じた。ほとんどの作品は写真を撮ることも、それをSNSで公表することも許されていた。けれど私は写真を撮らなかった。美術館でみて心を揺さぶられたどの作品も、その一部を写真で切り取って持ち帰ったとしても、作品を観たときに私が感じたすべてのことは持ち帰れないと感じたからだ。作品には、その全体をじっくりと鑑賞してはじめて伝わるものがあると思った。

 

 あいちトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭を順番にまわって、ずいぶんいろいろなことを考えた。そのあいだにもあいちトリエンナーレをめぐる報道は毎日耳に入ってきて、それといっしょに、あいちトリエンナーレをめぐるこころない声もたくさん、ほとんどなんの関係のない私のところまで届いた。私は実際にあいちトリエンナーレに行き、そうした声をきいて「まあ仕方ない」とかそういうことを感じたかというとそうではなくて、毎日毎日、そういうのを見るのがつらくて仕方がなかった。

 

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 個人的に感じるのは、あいちトリエンナーレの失敗は、来場者が作品の写真を撮って、それをSNSで公表することを無制限に認めてしまったことだ。あいちトリエンナーレに出品された作品のなかには、私が写真に収めた瀬戸内国際芸術祭の作品とは異なり、パッと作品の全体を見て(綺麗)と感じることができるタイプの作品とは異なるタイプの作品が含まれていた。それは鑑賞者に、作品を最後まで見て作品と対話することを要求するもので、一部分を切り取られ、それが何も知らない人の目に晒されるのは作家の本意ではなかったと思う。刺激的な一部分のみが誤った解釈とともに広められる可能性のある作品については、事前に何らかの対策を講じる必要があったのかもしれない。

 あいちトリエンナーレの作品は全体にメッセージ性が強く、今回SNS上で問題とされた作品のほかにも、それなりに過激な表現のものはあった。実際に作品を観に行って(少女像を批判する人的に、これはOKなん…)と感じた作品もあったほどだ。実際のところあいちトリエンナーレを批判している人のうちの半分もあいちトリエンナーレに行ってはいないのだと思う。

 

 と言っても、今回問題になった作品は私もみられていない。ただ、ネット上で映像と説明文を読んだ限りでは、それらが単に反日少女像の礼賛(や、天皇の写真を燃やすことの肯定)を目的に展示された作品だとは感じられなかった。作品の意図も理解できた。こうした作品を批判している人たちの多くは単に、作品の一部を切り抜いて都合よくつくられた偽の事実に対して、なかば条件反射的に反応しているに過ぎない。

 

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 私はふだんこういうことを書かない。私が書くテーマは限られていて、それは私がほとんど何も知らないからだ。知っているつもりのことも、後になればほんの一面しか知らなかったと気づく。知らないことについて本来、私はなにも語ることができない。

 だからもしかしたら、これまで書いてきたあいちトリエンナーレに関することも、ほとんど間違っているのかもしれない。だけどいったい、よのなかの人たちはどれほどのことを知っているというのだろうか。あまりにもたくさんの人が、なにも知らないくせに、知っているふりをして身勝手なことを言っている。

 

 あいちトリエンナーレに展示された作品について電話で苦情を言ったひとが、匿名で取材を受けているのをみた。作品を実際にみたことはなく、正直よく知らないと言う。これだってもしかしたらだまされているのかもしれないけれど、それにしたってふしぎだ。いったいみんなは、何を知っているんだろうか?