モリノスノザジ

 エッセイを書いています

世界を救うねこエネルギー

 私の実家には2匹のねこがいる。一匹はしろくて、一匹はちゃいろい。両方とも牝で、捨て猫が保護されたのを妹がもらってきた。家では父・母と妹、祖父母の5人が暮らしている。ねこたちはどちらもみためがいいねこなので、人間たちにかわいがられている。ときにはねこたちがちょっと嫌がるくらいに。

 

 朝起きるとだいたいねこたちはもう目覚めている。もう目覚めて、寝ている。母親を叩き起こして手に入れた朝食で腹を満たして、そうしてでっぷりとふくらんだ腹を天井に見せつけながら、食後のうたたねを楽しんでいる。ねこたちはたいてい、仏間の縁側にかかった薄カーテンの裏か、廊下のひんやりしたフローリングの上で寝ている。

 

 今朝は廊下。甘やかされて日に日にぜい肉が増すおなかをフローリングに投げ出して、とけたように眠っている。フローリングのつめたさと、ねこのぜい肉のあたたかさとの間に、足のつま先を差し込んでみる。やわらかい肉と、やわらかい毛の感触を足指の第二関節で感じる。ねこは眠っている。ねこの下に差し込んだ足を、さらにねこの奥へとうずめていく。じょじょに。ねこはまだ眠っている。私の足は、足首にだいぶ近いところまでねこに埋まってしまう。

  午後はリビングのねこ専用ハンモック。眠っているねこのかたちにハンモックはへこんでいる。へこんだハンモックを手で下から持ち上げると、ハンモックの上で眠っているねこのかたちが変わる。ねこたちは、ここで寝ているときだけは人間にブラッシングされることを許す。ねこを起こさないようにそっとブラシをかけると、ねこはくすぐったいのか痛いのか、寝返りをしたりしてしばしば体勢を変える。腕も脚もだんだんひらいていくところを見ると、そんなに悪いものでもないらしい。毛の薄いおなかにブラシを突き立てないように注意しながら、ゆっくりとブラッシングをする。

 

 

 ねこはいつだって突然嫌になる。さっきまで目を細めてうれしそうになでられていたかと思うと急に身をよじって手をけり始めるし、さっきまで眠っていたかと思えば突如立ち上がってどこかへ行ってしまう。まだねこをさわりたりない私はねこを追いかける。ねこはふたたび、はじめの間、すこしだけはだまってなでられているのだが、そのうちまたどこかへ行ってしまう。やがて私の顔を見ただけでいなくなるようになる。…ねこに嫌われた。

 

 他人に拒絶されてよろこぶ人間はいないだろうが、私も例外ではない。相手がねこだったってそうである。なので、ねこにやんわりと拒絶されるとそれなりにショックを受ける。そもそも「わがまま」とか「マイペース」と言われるねこである。ねこ飼いたちに言わせれば、ねこは飼い主のことを便利なえさ出しマシーンとしか思っていないらしい。もしそうだとすれば、えさを出さないばかりか、睡眠中とあればほっぺをつつき、腹の下にごつごつした足を差し込んでくるこの人間はいったいどう思われているのだろうか。無価値どころか、ただのうとましい存在でしかない。ねこからしてみれば、無視したってなんのさしつかえもないだろう。もうすこし上手になでることができれば…と後悔してももう遅い。ねこに嫌われた。もうねこに無視される。

 

 

 ねこのことを私はよくわからない。あれだけ嫌っていたにも関わらず、部屋にふたりきりになるとやたらとしっぽを絡ませてくる。ニャーニャー声をあげて、足に絡まってくる。これみよがしにどてっと身体を横たえて、「来いよ」という目で見上げてくる。さっきまであれほど起こっていたというのに、まるで脈絡がない。

 おそらくこういうところがねこを「マイペース」と呼ばせる所以なのだろう。私が執拗に腹に足を沈めようとするのでねこは根に持っているにちがいないと思うのだが、ねこはそんなことすっかり忘れたみたいに甘えてくる。

 

 ねこと生活していると、ねこの気持ちを推し量ってはらはらしているのがバカみたいに思えることがある。ねこの気に障るようなちょっかいをかけても、ねこは漫画みたいに怒ったりしない。ただちょっと嫌そうな顔をしてすっくと立ちあがり、どこかへ行ってしまうだけだ。ああなんだか心配して損する。ねこは私が心配するほど私のことを怒ったりはしないのだ。ねこは根に持たない。その代わりに愛情も持たない―――のかどうかはわからないけれど。

 

 もちろんねこが何も感じずに生きているというわけでもないだろう。ねこもねこなりに飼い主に愛着を覚えるし、ひどいことをされれば悲しいにちがいない。でもねこは「私の気持ちなんてすこしもわかってくれない」なんて言わないし、後でそのことを責めたりもしない(たとえねこが言葉をはなせてもそうだろう)。ただ、嫌であればするりと逃げていくし、好きだって気持ちは身体をすりよせて表現する。本当は嫌なのにニコニコすることも、その逆もない。ねこの行動に計算はないみたいに思える。だからわたしはねこが好きだ。そしてねこと一緒に暮らすとき、私はなんだかすこし楽になる。

 

 

 見えないものに影響されているのだ。聞いてもいない悪口や、見てもいない意地悪な笑い顔。私は他人の行動の裏に、見えない感情を見てしまう。こんなことを言ったらこう思うかもしれないとか、相手がこういう反応をしてきたのはきっと私のことをこう思っているからにちがいないとか、そんなことを考えてしまう。そうした思い込みは単なる思い込みでは終わらなくて、らくらくと私の足を止め、私の生活を中断させる。見えないものに私は影響されている。

  ねこと一緒にくらしていると、なんとなく人間までもがねこに見えてくる。ねこがふらっとリビングを歩くように、人間も歩く。大きい音がするとびくっとする。頭をすこしだけ動かして、遠くを見る。そして、表面上観察できるかたちで表明された以外の、感情とかそういった見えないものは何も持っていないみたいに見える。あっても気にしなくていい。ねこは気に入らなければどこかに行くし、そうでないなら別に嫌じゃないってことだ。人間もねことおなじで、嫌なら嫌と表明するし、そうでないなら別にどうでもいいのだ――――というふうに見えてくる。いや、実際のところそうなのかもしれない。ねこを通過することで他人の動きは単なる「動き」になり、私はその奥に見えない影を観なくても済むようになる。

 

 

 『エコエネルギー』という言葉を見かけたら、頭のなかで『ねこエネルギー』に変換するルール、ということにしてみる。

 

  • 『ねこエネルギーハウスは、地球環境にやさしい快適な暮らしをサポートします』
  • 『ねこエネルギーを促進する取り組みに対して、補助金を交付しています』
  • 『ねこエネルギーは、温室効果ガスの排出が少ない、環境にやさしいエネルギーです』
  • 『地球を救うねこエネルギー』

 

 ここ数年、コミュニケーション活性化のために社内でねこを飼う会社とか、受刑者の更生のためにねこを飼う刑務所、なんて話題をときどき耳にする。たしかにねこエネルギーは地球を救っているのかもしれない。それぞれの場所でそれぞれのしかたで、ねこエネルギーは今日も地球を救っている。…そして私を。