モリノスノザジ

 エッセイを書いています

俺の文章

 日本語の一人称代名詞は多様である。といっても、日常で使われている一人称はせいぜい数種類といったところだろう。「わし」とか「それがし」、「拙者」「わて」なんてのは一種の役割後と化していて、生身の人間がこれを使うことはたぶんほとんどない。「あたし」「俺」「うち」みたいな一人称大飯はどうかというと、これもおそらく、大人の社会ではほとんど使われていない。だいたいは「私」とか「僕」といったところじゃないだろうか。

 ブログ記事はどうかというと、これもビジネス社会同様「私」や「僕」で書かれたものがほとんどだ。そんななか俺は、一人称代名詞「俺」を使った文章をこないだ見かけた。めずらしい。この人は普段から一人称が「俺」なんだろうか?それとも、なにかしらの効果をねらったあえての「俺」なのだろうか?なにがその人にとってのほんとうなのかはわからない。けれどそのまま、俺は静かに痺れていた。「俺」が語る物語に。

 

 自分を指す代名詞としてどの語を選ぶか。たぶん、多くの人が一人称の切り替え(もしくは切り替わり)を経験していると思う。そして俺は、だれかの一人称が切り替わる、その瞬間、その理由に興味がある。口になじんだ一人称を別のものに変えるくらいなのだから、きっと何かのきっかけがあるはずだ。けれど、というよりはだからこそ、一人称切り替えのきっかけとなった出来事はその人にとって大きな意味を持っているに違いなく、思いがけず他人の古傷に触れてしまうことに臆病な俺は、そのことを誰にも聞けずにいる。というか俺自身がそういう、トラウマと言うには些細だけれども積極的に思い出したくはないエピソードを抱えているからこそ、他人にも聞けずにいるのだった。

 

 俺には妹と弟がいる。妹はもともと「〇〇ちゃん」と親に呼ばれるまま自分のことを呼んでいて、たぶん小学生のときだと思うが、その呼び名が痛々しくならないうちに、自然と「うち」と呼ぶようになっていた。会社や改まった場では「私」と言うらしいが、今でも家では「うち」である。

 弟は保育園に通っていたときから「おら」だった。「おら」ってなんやねん、「おら」って言うヤツみたことないぞ、と当時の俺は思いつつ、しかし目の前には実際に自分のことを「おら」と呼ぶ弟がいることで、俺は混乱したりおもわず納得しかけそうになったりしていた。俺は今でも「おら」はダサいと思うけれど、けっきょく弟は高校を卒業するまでずっと「おら」だったのだった。ちなみに、大学に進学した弟は、発音だけは「おら」のままで「俺」と呼ぶようになっている。

 

 俺は―――というか、俺のことはあんまり話したくないんだけど。話すなら、昨日の雨ですっかり街の空気が秋に入れ替わってしまった北海道の天気のこととか、俺が好きだけどあんまり店に売ってないポテチのこととか。俺が好きだけどあんまり店に売ってないアイスのこととか、ああなんだか俺が好きなものは俺しか好きじゃないものみたいだな。そういえば学生時代に通っていたコンビニで買っていた干し芋も、俺が買わなくなってしばらくしたら店頭から消え失せていたのだった。そしてそろそろ気がついているかもしれないけれど、この文章は俺が「俺」になりたかったがためだけの中身のない文章であり、とくに伝えたいこともオチもないわけで、そろそろ風呂タイムですしさようなら。