モリノスノザジ

 エッセイを書いています

短歌を詠むこと・文章を書くこと

 ふらちな吹奏楽部員だったので、プロの演奏はきいたことがなかった。コンサートに行くのは疎か、CDすらきかない。コンクールの課題曲だって一曲も。まっとうな吹奏楽部員はお手本CDを何度も、場合によってはその曲を演奏するありとあらゆる音源をかき集めてきくのだということを、知ったのは大学生になってからだ。私は曲にも音楽そのものにもまったく興味がなくて、ただ楽器のことが大好きだった。毎日ぴかぴかに楽器を磨いて、水をとおしてグリスを塗って、いちばんいい音を出させてやりたい。楽譜はろくに読めなかった。ステージの上に55人も人が乗っかっていれば、そんな人間もひとりくらいいるってことだ。

 

 短歌をはじめたときに「とりあえず10年間つづけてみよう」と思ったのは、楽器と過ごした10年間があったからだ。楽器と同じで10年もつづければそれなりに自分が満足できる水準にたどり着けるのではないかと思ったし、吹奏楽に費やした10年を超えたかった。短歌をはじめてからしばらくは古本屋をまわったりもして、できるかぎり歌集を購入するように努めた。だが、いつのまにかペースが落ちている。音楽だからどうとか短歌だからどうとかいうわけではなくて、つまるところ私自身がそういうことに向いていないのだ。

 

 吹奏楽部員だった頃の自分がそうだったように、歌をしらないこと・歌に夢中になれないことを私はやましく感じる。一年前にはじめたこのブログの存在を、短歌仲間に知られたくないと思っていたのもそのせいだ。私は歌で食べているわけでも歌だけで生きているわけでもないのに、歌に夢中にならずに歌以外のことをやっているのはいけないことのように感じた。べつにそうやって誰かに責められたわけではない。ただ自分がそう感じた。歌だけをやっていたときはもっと息苦しい気持ちで、だから私にはこのブログが必要だった。

 

  それに今になって気がつくのは、私にとって文章を書くことは短歌をつくるためにも必要なことだったということだ。はじめて短歌の連作をつくったとき、たった10首の世界観を均一にするのにとても苦労した。好き勝手なタイミングで思いついた歌をかき集めるだけでは、まるでちぐはぐになるのだ。けれど今は違う。単純に歌歴が長くなった(無駄に年数を重ねただけだが)というのもあるのだろうけれど、今ならいつつくったどんな歌も自分らしいと自信を持って言える。まあ自分が書いてるんだから自分らしくなるでしょ・ふつう、って感じにかるく。それは世界観とかキャラクターというよりも、ことばの「温度」とでもいうようなもので、その温度はここで文章を書くことで手に入れたものだ。

 

 ステージに55人も乗っかってれば、譜面が読めない部員がひとりくらいいたってふしぎじゃない。そう言ってもいいなら、歌詠みがこれだけいれば、歌集が苦手で歌もあんまりつくらず、ふだんはエッセイなんかにかまけてる歌詠みがひとりくらいいたってかまわないって思いたい。楽器が好きなだけの音楽音痴にもちゃんと席があったように私にも居場所があって、私は私だけの道を歩いてもいつか好きなところへたどり着くのだ。