モリノスノザジ

 エッセイを書いています

あたらしいことばを手に入れた

 色相環。っていうのか、いろいろな色がぐるっと輪になったあの図が苦手だ。正確に言えば、色相環があるところにつきものの色彩理論。色相に彩度に明度。色はとても感覚的なもののように思えるのに、色を語ることばは理屈っぽくて難しい。たとえば見る人の目を引く色の組み合わせだとか、美しい色の組み合わせについての説明文。さらっと読み流してもさっぱりわからないのは当然なのだが、じっくり読んでもやっぱりわからない。同じ文章を繰り返し読んで、なんだかわかったようなわからないようなつもりになったところで脳が終了する。そんなわけで、そういったややこしい理屈を想起させる色相環はなんだか苦手なのだ。

 

 だけれどそんな色彩理論も、根気よく取り組んで理解できるとなかなかにたのしい。どの色をどこで使うか、それにどの色とどの色を組み合わせるのがよいのか。それにはちゃんと理由がある。そして、それは「センス」みたいなあいまいなものではない。いいものの良さを、あるいはよくないものの悪さを、ちゃんとことばで説明することができる。それは思ったよりもたのしい。

 色彩理論だけじゃなくて、レイアウトデザインなんかもそうである。良いレイアウトには、それが良いレイアウトであるための理由がある。そして、良いレイアウトをつくるためのノウハウというものもある程度洗練されている。それがデザインのすべてというわけではなくて、ある程度レベルが高くなれば当然個々人のセンスのようなものが働く余地があるのかもしれない。けれどもっと初級のレベルに関して言えば、いくつかの基本的なルールを守れば素人でもまず失敗はしないような、そんなノウハウがある。そしてそれはつまり、いいものの良さを、あるいはよくないものの悪さをことばで説明できるということだ。

 

 そういった理論を知らなかったころの私は、ポスターやWEBページや雑誌の紙面とかそういったものについて、その良さをことばで説明することができなかった。あるいは、それをなんとなく気に入らないときに、ただ「気に入らない」としか言えなかった。だけどこれからは変われるかもしれない。このデザインが気に入らないならその理由を、この色の組み合わせが見づらいならその理由を、話せる。話せたら相手に伝わる。ただ「気に入らない」「気持ち悪い」では伝わらなかったことを、伝えられる。ことばで。

 

 あたらしい分野を学ぶというのは、あたらしいことばを手に入れるってことなんだ。私にはわからない世界だけれど、微粒子とか、宇宙とか、そういうことを専門にしている人たちにはその人たちのことばがあるのだろう。そして、ことばには世界が結びついている。そのことばを使うことによってしか説明や表現をすることのできない事柄があり、見えない世界がある。

 幼い子どもがことばを覚えると、いろいろなことを表現することができるようになる。話せるワードがひとつ増えるたびに、助詞を使って長い文章を話せるようになればなるほどに、子どもが表現できる世界は広がる。子どものころの私にとってあたらしいことばを覚えるということはすなわちあたらしい世界を知り、表現できるようになるということだった。それなのにいつのまにことばが背負う世界が小さく見えていたことだろう。でもほんとうは違うんだ。あたらしいことばを手に入れることは、あたらしい世界と出会うことでもある。

 

 色のことをそうやって、どちらかというと頭のほうでとらえられるようになってからは、自分の好きな色が何色だったのかわからなくなってしまった。好きな色といっても、色と色の組み合わせによって好きになったり嫌いになったりするし。何かを伝えようとするときに選ぶ色は「好きな色」ではなくて、ある種の必然性をもって選ばれた色でもあるのだし。色彩理論をかじってみて、私の世界の<色>、その<色>そのものは豊かになったのか、その逆にさっぱりした無機質なものになってしまったのかはよくわからない。変わらないのは、やっぱり相変わらず色相環は苦手ってことだけだ。

 

 今週のお題「わたしの好きな色」