モリノスノザジ

 エッセイを書いています

母親

 「おかあさんが私の中学校のジャージを寝巻にしててヤダ」っていうあるあるがあって、私には特にそれに該当する思い出はないはずなのになんとなく理解できてしまう。私の母は子どもたちのジャージを寝巻にはしなかった。けれど、母は若いころに着ていた服を何年も着続けていて、私はそれが嫌だった。それは流行遅れの服を着ているのが嫌だとかそういうことではなくて、もっと別の問題だった。たとえば母は、彼女が学生だったころ加入していたサークルのTシャツをずっと寝巻にしていたのだけれど、私はなんとなくそれが嫌だった。

 自分自身が大人になってみて、そういえば自分も高校生の頃から着続けている服があると気が付く。大人は簡単に大きくはならないから、極端に太ったり痩せたりすることがなければずっと同じ服を着続けることができるのだ。

 

 母が何年も同じ服を着ていたのにはたぶんほかにも理由があって、それはおそらく私たち子どもたちのためだったのだと思う。正月が近づくと子どもたちに新しい下着と靴下を買い与える一方で、母はずっと同じブラジャーを着けていた。洗濯かごにはいつもワイヤーがよれよれになった下着が入っていて、よく見ればよれよれなのは下着だけではなかった。大人である母はそう簡単に新しい衣服を必要としないし、それ以上に、当時は自分のために新しい衣服を買おうという気持ちがなかったのだと思う。子どもたちは順番に巣立ちつつあり、母も新しい洋服を着るようになった。そういうことだ。

 

 子どもだった私は母のそんな気持ちをわからずにいた。母が学生時代のTシャツを着ることに対してなんとなくもやっとした気持ちを抱いていたのはきっと、「母親」じゃない母の気配に戸惑っていたのだと思う。私が生まれたときから母はずっと「母親」で、「母親」じゃない母の人生なんて想像したこともなかった。想像したこともなかったし、きっと想像したくなかった。

 そんな気持ちから、私が母に母親らしくあることを求めたことはきっとほかにもあるに違いない。子どもを持てば当然で、当然に受け入れるべきことなのだろうか?母は「母親」としての生き方に、父は「父親」としての生き方に縛り付けられること。それも20年以上にわたって。母が私を生んだ年齢よりも、私はずっと大人になって、こうして好き勝手なことをして生きている。働いてもらったお金で好きなものを食べ、好きなものを買って、下着も一年に一度は新調してる。それは私が彼女の「子ども」として生まれて、彼女の前に可能性としてあったそういう生き方を犠牲にして得たものなのだ。

 

 成人して就職してからしばらくの間、親たちとの関係をどうしていったらいいのかわからない時期があった。経済的に自立して、ひとりでできることも増えた。親はなんでも知っているなんて、そんなことはもう思わない。私の方が親よりもよく知っていることだってたくさんあるし、親だってときどき間違えることだってわかってきた。そして、それなのにずっと親が「親」らしくふるまおうとするのにはなんとなく違和感を感じていた。振り返ってみれば、遅れてきた反抗期のようなものだったのかもしれない。表立って反抗するようなことはなかったけれど。

 子どものころは母が「母親」じゃない顔を見せるのが嫌だったのに、大人になったらいつまでも親ぶらないでほしいと思ってるんだ。ほんとうにわがままだと思う。

 

 そうこうしているうちに気が付けば母はすこし変わって、私がすることに対して、なんだか幼い子どもみたいに素直によろこんだり笑ったりするようになった。それでも旅行に連れて行けば自分の分の宿泊代を払おうとしてくるし、お金を渡しても受け取ろうとしない。ああ嫌だな。もう、そういうところで親ぶらないで。素直に親孝行されてよ。