モリノスノザジ

 エッセイを書いています

満員電車で踊るには

 朝は、Serani Pojiを聞きながら通勤する。


 セラニポージは、ゲーム『ROOMANIA#203』に登場する架空のアーティスト。ゲームの主人公・ネジタイヘイはセラニがお気に入りで、放っておくと勝手にセラニポージのCDを聴きはじめたりする。「やっぱセラニはいいなー」なんてネジのつぶやきを聞きながらプレイするうちに、私もいつの間にかセラニなしでは生きられないからだになってしまった。

 各曲の歌詞はゲームのシナリオとそれぞれリンクしていて、よく聞くととてもせつなかったり不条理な状況を描いていたりする。けれども曲自体はそんな歌詞のせつなさを打ち消してしまいそうなほど軽快・ポップでご機嫌で、そのふたつの絶妙なブレンドにすっかりとりこだ。私が曲をくりかえし聴くアーティストはセラニだけだし、きっとこれからもセラニ以外の楽曲は私には必要ないのだとすら思う。

 

 そんなわけでセラニを聞きながら通勤している。困るのは、曲を聴いていてついつい踊りたくなってしまうことだ。特に電車のなか。手持無沙汰に突っ立っているだけのからだは、セラニポージを投与されて踊りだしたくてしかたがない。歌詞は泣けるんだけど、からだは踊りたくなっちゃうのだ(ごめん)。

 

 けれども通勤中の満員電車で踊ることにはいくつかの問題点がある。第一に、踊るための物理的な余裕がない。さらに、不特定多数に囲まれた満員電車ではつねに他者の存在を意識する必要がある。

 第一の問題は、実はたいした問題ではない。大きな空間をつかってダイナミックなダンスをするというならともかく、電車のなかで踊る分にはもっと小ぶりなダンスで十分だ。たとえば音楽に合わせて頭や肩を動かすとか、そんなものでかまわない。そしてそのためにはからだの周囲に多少の空間的余裕があるだけで事足りる。極端にぎゅうぎゅうな状況でなければ、物理的な障害はほとんどないといっていい。他人にぶつかったり、迷惑をかけることもない。

 しかし、たとえそれが公序良俗に反する行為でないとしても、安易に満員電車で踊ることはできない。ふたつめの問題点はそれだ。乗客のほとんどは職場に向かう途中でブルーな気分のはずだ。そのような空気のなか、私ひとりが朝から浮かれているわけにはいかない。それになにしろ、公の場所で踊っていては変人扱いされてしまう。これを避けるためには、踊りが「踊り」だと看破されないよう、あくまでも電車の乗客が取りうる動作として自然な動きにとどめることが必要だ。

 

 

 仕事を終えてホームから電車に乗り込む。青いシートに腰を下ろして、窓の外を流れる暗闇をぼんやり見送って、そうこうしているうちに電車は次の駅で止まったりしている。明日出勤したら朝イチでやらないといけないこととか、冷蔵庫にはキャベツが残っていただろうか、なんてことを考えながら、シンプルなはずの視界にさっきから何かが引っかかっている。

 目の前には向かいの座席とそれに座っているサラリーマン、部活帰りとみられる学生服に、デパートの紙袋を膝に乗せた中年女性。つり革をつかんで経っているグレーのスーツ。窓。乗客どうしの肩の隙間に、やっぱりブルーのシート。なんの変哲もない。いや、何か。ちらちらと気に障る動きがある。なんだろうと思っていたら、こちらに背を向けて立っているサラリーマンがやけに動いている。こまめに。

 

 その動きは、なんということもない。つり革につかまりながら立っていて、からだの重心を右足から左足に移したり、反対に左足から右足に移したり、それを交互にやっている。そのたびに、重心のかからないほうの膝は少しだけくたっと曲がる。ただそれがあまりにも頻繁すぎるのだ。左・右・左・右。重心を移し変えるのに1秒とかからない。小癪なことに、左・右、次は左…と思ったらフェイントで右、なんて動きもたまに交えてくる。それを見ているうちに私はすごく楽しくなってしまって、そのことをいまでも覚えている。

 

 

 あれから半年。彼から得た教訓は、あれほど頻繁にからだを動かしていても、動作自体が自然なものであれば案外人は気にしていないということだ。身体の重心を左から右に移す動き。それに、電車の揺れでよろけたふりをするのもいいかもしれない。つり革をつかんでいるときの手首の動きの予想のつかない感じは、ダンスに使えそうだ。ためしに少しだけ踊ってみる。…誰も気づいていない、大丈夫。ちらっと路面図を見るようなそぶりで頭を動かしてみたり。洗練させればうまくいきそうな戦略だ。いつか誰にも知られずに満員電車で思い切り踊ってやる。

 

 そしてセラニポージを聴きつづける。

manamoon remix

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