モリノスノザジ

 エッセイを書いています

野性にロック

 かつてチワワが流行ったそのころから、チワワ駄目だなーって思ってた。女性でも軽々と抱き上げられそうな小さなからだ。細い手足。おおきくてうるんだ瞳。それに犬として持ち前のなつっこさときた。あんなにいじらしい動物はほかにいないだろう。あんな生き物を飼っていたら、きっと私はチワワをいじめたくなる。

 

 ふるえているチワワを見ていると、ムラムラする。もしもこれが自分のものになったとしたら、きっといじめてしまうと思う。小さいので蹴とばせばボールみたいに飛んでいくのだろうし、ガクガク揺さぶればそのとおりになるだろう。それに、チワワは私になついているので抵抗しない。抵抗しないのかな?わからないけど。いじらしいほど私に忠実なチワワは、いじめてもいじめてもフリスビーみたいに私のところへ戻ってきて、あのうるんだ瞳ですがるように私を見つめるのだ。

  虐待なんてしないししたこともない。映画の流血シーンだってまともに見られない。なのに、なぜかチワワをいじめたくなる。チワワだけじゃない。恋人と一緒にいれば恋人を、突然むちゃくちゃにしたい気持ちに襲われる。それは性的な欲求ではない。具体的に何をしてやりたいのかもわからない。とにかく突然ムラっと何かが沸いてきて、相手をどうにかしてやりたい気持ちになる。チワワをいじめたい気持ちはその衝動に似ている。

 

 誰かや何かがひどく残酷な仕方で殺害されたり傷つけられたりしたとき、たくさんの人が傷つけられたとき、そんな事件がニュース番組で報じられるときにこんなことばを聞くことがある。「どうしてそんなことをするのか理解できない」とか、「あんなにひどいことをしようだなんて想像もできない」なんてことばだ。

 

 そうだろうか?

 

 私はチワワをいじめてしまいそうだ。そして、チワワをいじめたくなるこの気持ちと、誰かを傷つけたくなる気持ちとはそんなに種類が違わないと思っている。誰かを傷つけたり殺したいという衝動のうちのいくらかは、チワワや恋人をいじめたくなるときの気持ちと同じ突発的な衝動みたいなものなんじゃないだろうか。小説やドラマで描かれるような計画的な殺人とは程遠く、ただただ衝動に突き動かされてやってしまうことが、あるんじゃないだろうか。すくなくとも、私はときどき(あぶなかった)って思うときがある。聞きなれたクレームのはずなのに、相手のほんのわずかなことばのニュアンスや口調や態度やあれこれで、怒りがムラっと湧き出してくることがある。それは理性がとどめておけないくらいすばやくて、器のちいさい私はたいてい苛立ちを隠せない。ただ、いまのところ苛立ちを隠せないくらいで済んでいる。

 

 私がチワワを飼わないのは、チワワを飼えばいじめてしまいそうだからだ。子猫をレンジに入れるYouTuberを見て「理解できない」と言う人は、自分が絶対にそんなことをしないって、ほんとうに言い切れるのだろうか?私にはその自信がない。理解しないのは簡単だ。自分は関係ないと決めつけて。でも、もしも自分が衝動的に「チワワをいじめたい」という気持ちに襲われたら?いままで無関係だと思っていて、それでその衝動から逃げられるだろうか?

 

 私にとってチワワをいじめる自分を想像することは、チワワをいじめるかもしれない自分に鍵をかけることだ。だからごめん、私のなかのチワワよ。もうすこしだけいじめさせてくれ。