モリノスノザジ

 エッセイを書いています

評価される人と評価されない人

 けさのNHKニュースで、目の見えなくなった犬のためにつくられたプロテクターのことが紹介されていた。そのプロテクターは、デザイナーをしている男性が3Dプリンターでつくったもの。かつて飼っていた犬が、視力を失ってからあちこち頭をぶつけて歩くのをみて不憫に感じ、獣医師と相談してつくったそうだ。今はそのアイデアで、別の犬がまたすくわれている。

 

 そのニュースを見ていて、瞬間的に、ああ、人って能力があるだけでは評価されないんだと思った。

 

 3Dプリンターはまだ広く普及していない。少なくとも、一家に一台とか職場に行けばあるようなものではないし、紙のプリンターや電話機とは違って家庭に普及するようなタイプの機械でもないだろう。もちろん、3Dプリンターをつかえる人も限られている。この人はデザイナーだというから、もともと3Dプリンターをつかえたのかもしれない。けれど、ただ3Dプリンターをつかえるというだけではこの犬たちはすくわれなかった。壁に頭をぶつけつづける日々から視力を失った犬たちを解放したのは、3Dプリンターをつかう能力だけではなくて、その犬のためになんとかしてやりたいという男性の願いだったのだと思う。

 

 今の会社にいて、てきぱき仕事ができるひとがまっとうに評価されていないと感じることがある。あるいは、能力があるのにそれを生かせる配置に恵まれていないようにみえる人がいる。けれど、能力があるだけの人にできることには限界があるのだと、そのニュースを見て思った。その技術をつかってどうやって人をたすけたいか、どう貢献していきたいか、その気持ちがなければ与えられた仕事をこなすまでしかできない。就職セミナーや面接でいやというほど聞かされた「あなたは社会にどのように貢献できますか?」といった類の話とまったく同じ発想で、なにひとつあたらしい発想はないのだけれど、それでもそれをきょうはじめてそれをわかった気持ちになった。ああ、そういうことだったのか。

 もちろん、気持ちだけあればいいというわけではない。たしかな技術や能力を持っていることは重要だ。だけれど、資格欄がいくら豊富な文字で埋まっていたとしても、それだけでは意味がない。それを身につけたその人が、その技術や能力をどう役立てていきたいか、それこそが大事だし、それを実践してこそその人は、単なる「簿記2級の人」から「わが社のドクター」という特別な存在になれるのだろう。たとえば。


 なんだか朝から目の覚めるようなニュースだった。