モリノスノザジ

 エッセイを書いています

全日本家事大会開催のおしらせ

 「これは、」とおもうのは―――。使い終わったハンガーを洗濯かごに片付けるついでに、取り換えたまくらカバーを洗濯機に放り込むとき。小鍋でかぼちゃを煮ながら料理中にでた洗い物を片付け、そのとなりで唐揚げ用の肉が特製のタレのなかでねむっているとき。金曜日の朝弁当箱におかずをつめたら、冷蔵庫のなかがきれいにからっぽになったとき。一人暮らしも十年になって、少しずつ効率よい家事のやりかたというものがわかってきたような気がする。

 そしてもうひとつ感じるのは、家事はそれ以外の生活とつながっているということだ。家事に必要な段取り力は仕事中や旅先でも使えるし、培われもする。仕事でミスをしたとき、旅行中に急に雨に見舞われたときに事態を打開するために使う力と、日常を滞りなくまわしていくための家事の力は根っこでつながっている。

 しかし、仕事や趣味と違うところもある。私は一人暮らしなので、家事のやり方は基本的に自分で学び、覚えなければならない。ゲームとちがってチュートリアルはない。一方、仕事とはちがって、とんでもないことをしでかしても自分のほかに利害を被る人間はいない。そんなことも理由で、家事がいっきに上達するということはなく、ゆっくり、しかし毎日やるがゆえに確実にうまくできるようになっていくのを感じる。家事歴10年そこそこの私がそうなのだから、もっと長いこと家事をしているひとや、複数人分の家事を担っているひとというのは、それはもうものすごい家事力を持っているのではないか。

 そうしたすばらしい、そして普段は日常のあわただしさのなかで決して注目されることのない数々の技術をみてみたい。そして、そんな技術で日常を生きる全国の家事ラーたちをたたえたい。そんな気持ちがして、ここに全日本家事大会の開催を宣言します。


 大会の参加資格はすべてのひとが持っている。しかし、「業」としての家政婦が勤務時間中に発揮するような家事力は審査の対象外とすべきであろう。

 なぜなら全日本家事大会は、仕事や育児、趣味など普通のひとが普通に過ごす日々を大事にしながらいかに家事をこなすか、それを実現するための工夫や努力を評価する。技術の差がどうであれ、対価を与えられ、与えられた時間のなかでそれだけに専念する「職業としての家事」と「日常の家事」が同じ土俵で語られるべきではない。
 競技としての採点基準を考えよう。まず、できばえは重要だ。掃除がすみずみまで行き届いているか、料理はおいしいかなどといった家事のクオリティを「技術点」として評価しよう。
 つぎに「構成点」。これは、複数の家事を効率よくこなすスキルを評価するものだ。短い時間でより多くの家事を、時間的ロスを最小限にとどめてこなすことができれば評価が高くなるのは言うまでもない。
 そして、いかに効率よく、出来の良い家事であったとしても、多額の費用がかかるようであれば日常との両立は困難だ。そこで、経済的効率性も採点項目に加えることにしよう。食材やエネルギーの無駄を抑えることも重要だ。
 しかしいつか、ほとんどの家事を機械で済ませることができるようになり、しかもそのために特別な経済的負担が必要ないような未来が今後やってくるとしたらどうだろう?そのときは、それらの機械をうまく使いこなせる人間が評価されることになるのだろうか。
 日常生活を便利にするという観点では、旧式の家事にこだわることはむしろ妨げにしかならない。洗濯機や炊飯器は昔はなかったわけだけれど、今は多くの家庭が備えていて、そうした機械を使うことは「手抜き」とはみなされない。しかし、手間暇をかけることに価値が置かれていることも事実である。来るべきIoT社会を前にして、家事というものの考え方、そして家事大会の採点基準のあり方を考えていくことはわれわれ家事業界の急務の課題である。


 話は現代の家事大会に戻って、現実的に家事が競技として成立するには何が必要かを考えてみよう。

 まず、参加者はみな同じシチュエーションのもとで競技に参加しなければならない。体操の大会で参加者によって鉄棒の高さが違っていたり、サッカーボールの重さが試合によって増減するようなことがあればそれはフェアな戦いとは言えない。したがって、家事大会もまた同じシチュエーション、同じ道具と時間が与えられるべきである。

 しかし、全員が同じシチュエーションに置かれ、家事を行う、というのは、はたして全国家事大会のそもそもの理念に沿ったやり方なのだろうか。全国家事大会は、人によって異なるそれぞれの生活のなかで発揮される工夫や技術にスポットを当てるものである。その生活は、一人で子供を育てる片親であったり、会社勤めのサラリーマンであったりする。老いた配偶者の介護をする自身も高齢の身であったり、10代の一人暮らしビギナーであったりもする。このように生活状況がひとりひとり異なるなかで、ひとびとはそれぞれの生活に適応するための努力をしているのだ。そして、全国家事大会はそうした個々人の努力にスポットを当て、称えることが目的の大会ではなかっただろうか。

 そういった意味では、それぞれの家庭にそれぞれの家事大会がいえる。そして私は常にグランプリである(一人暮らしなので)。しかも、この王座は当面の間だれにもゆずる予定はない(残念ながら)。

 

 毎日当たり前にやっていることでも、その当たり前の毎日はたくさんの努力の積み重ねでできていること。そんな気持ちで、家事をするあなたがすこしでも誇りにおもってくれるのであれば、家事大会主催者としてこれ以上うれしいことはありません。そして、もしあなたがまだ家事をしていないのであれば、ぜひ参加してはみませんか。全国家事大会は、今日もあなたのおうちで開かれています。