モリノスノザジ

 エッセイを書いています

びよんど

 なにもはいっていない空のマグカップを手に取るみたいな無造作さで電子レンジからマグカップを取ったものだから、カップから熱い牛乳が漏れて私は親指のつけ根をやけどした。そうだ、牛乳を飲もうとしたんだ、と私は気が付く。この間のサンマのことといい、ここのところ信じられないことばかり起こっている。

 ものごころついたころから牛乳は嫌いだった。給食の牛乳はミルメークがないと飲み切ることができなくて、いつもだれかに飲んでもらっていた。牛乳を嫌いだった理由はわからない。味やにおいが嫌いなわけじゃないし、飲むとお腹が痛くなるわけでもない。だけどなぜだか牛乳を飲み切ることができなくて、それはいまでも同じだ。牛乳についてネガティブな感情は全く抱いていないはずなのに、冷蔵庫のなかの牛乳はいっこうに減らない。それなのに冬になるとどういうわけだか牛乳を飲みたくてたまらなくなるときがあって、今日もこうして牛乳をあたためている。

 サンマも同じだ。私は小さいころから魚が大嫌いで、成人してからもスーパーでは魚コーナーを避けて歩いていた。そんな私が、一カ月間毎日サンマを食べ続けていたのだ。一日一尾、サンマを買いにスーパーに通っていたので、裏でさんまさんって呼ばれてないか心配だった。

 しかしそんなサンマ熱も、ある日とつぜん消えてしまった。一昨日や昨日と同じようにサンマを買うつもりでスーパーにはいったのに、うーん、なんだかサンマはもういいや、という気分になった。昨日まであれだけ固執していたサンマには目もくれず、私はカレーに鶏肉と豚肉のどちらを入れるか考えているのだった。そうしてサンマを食べていた日々は砂糖が日差しに溶けていくみたいにゆっくりとなくなっていき、私の食生活は元通りになった。サンマがふたたび嫌いになったわけではない、と思う。

 こういうのってなんだか不思議である。冬になると牛乳を飲みたくなったり、チョコレートが食べたくなったりするのが。暑い季節に冷たいものを食べたくなるのは自然なことだけれど、牛乳やチョコレートやサンマやセロリやホイップクリームも、それぞれにそれを欲しくなるような、しかるべき季節があるのだろうか。

 季節や年齢によって嫌いなものを好きになったり、好きなものを嫌いになったりしていると、なんだか季節ごとにワタシを乗り換えているような、そんな気持ちになる。食べ物だけじゃなく、私はかつて許せなかったものを受け入れられるようになっていたり、その逆もそうなのだけれど、いつまでも昔の自分ではないようなところがあって、夢中になってサンマをかじっている自分に気が付いてなんだか驚くような寂しいような、不思議な気持ちになることがある。いつでも自分がいちばん自分の想像を超えていく。不思議なことだ。