モリノスノザジ

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おたのしみはおわらない

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 二日連続でピザの広告を入れられたあげく(一日目と二日目は別々の店だけど)、玄関に三枚目の広告を投げ込まれたことで完全なるピザ受け入れ態勢となってしまった私は、ピザをつくることにした。

 ピザのつくりかたを知ってからは、ピザを食べたい衝動2回につき1回は自分でつくっている。寝起きでもすっぴんでも好きな時にピザが食べられるうえ、リーズナブルで胃の負担も少ないのが自作ピザのいいところだ。

 通常ピザといって想像するような円盤型のピザはうまくつくれないのであきらめた。一回目に失敗したときは、本来4枚に分けるべき生地を1枚のピザとして焼いてしまった。どれだけ焼いても生焼けで、とてもまともに食べられなかった。二度目はちゃんとした分量で焼いたにもかかわらず生焼けだった。我が家の貧弱なオーブンに、ピザはハードルが高すぎたのかもしれない。

 代わりにつくっているのが、フライパンで焼くピザだ。生地をこねてフライパンに広げ、タルト生地のようにふちを造成する。なかにお手製のピザソースを流し込んでから蓋をして火を通せば、タルト風ピザのできあがりだ。

 ソースの具材は、たっぷりのトマトにきざんだ玉ねぎ、ベーコン、それに角切りのモッツァレラチーズを忍ばせてある。もちろんソースのうえにもモッツァレラチーズをたくさん並べてやる。高さ3センチのピザ生地の壁に囲まれて、トマトチーズはぐつぐつと煮えたぎっていた。ピザの円形から三角形を切り出すと、熱いソースがとろとろとこぼれてくる。我慢できなくて、やけどをするのもかまわずソースにかぶりつくと、熱くてやわらかいソースのかたまりが私の歯をがっぷりと包んで、前歯はとうとう、私の歯なのかピザから生えている歯なのかわからなくなってしまった。焼きすぎてかちこちのピザ生地を、歯で噛み砕いていく。トマトソースを飲み込むと熱い塊が喉をとおって胃にすとんと落ちるのを感じて、ピザと私は、食べることを通じてひとつになるようだった。

 

 私はピザが好きだ。ピザの食べすぎで、むこう二日間なにも食べられなくなったって、ピザを食べたい。でもどうしてだろう?

 私はチーズも好きだ。コンビニのピザまんに入ってる、ゴムみたいにコシが強くてしこしこするチーズが好き。すくってもすくってもスプーンからこぼれてしまうような、やわらかいいきものみたいなチーズも好きだ。

 私は粉物も好きだ。お好み焼きはピザと同じくらい好き。外で食べるたまの機会にはふらっとお好み焼き屋に行きたくなる。チェーン店に入ると周りのほとんどが中高生でなんだか恥ずかしくなるけれど、それでもかまわないくらお好み焼きも好きだ。

 私はトマトも好きだ。トマトの野菜とも果物とも言えない、みずみずしくてあまくて、トマトだけが持っているあの食感が好きだ。近所のスーパーで売ってる地元農家の無農薬トマトが好きで、行くたびに買ってしまう。でも、なかのドロドロの部分はちょっとだけ苦手で、だからどちらかというとミニトマトのほうが好きだ。

 じゃあ、私は、チーズとか小麦粉とかトマトとかベーコンとか玉ねぎが好きだからピザが好きなんだろうか。好きなものがいっぱい入っているから、ピザが好きなんだろうか。

 思えば、ピザが好きといっても、私が食べるのはいつもマルゲリータだ。それって、そういうことなんだろうか?


 いや、なんだか、料理ってそうじゃない気もする。料理はただの足し算じゃない気がする。チーズと小麦粉とトマトとベーコンと玉ねぎでつくったピザは、チーズ+小麦粉+トマト+ベーコン+玉ねぎを超えていて、ピザはただピザとしておいしいのだ。たくさんの色を重ねて描かれる絵も、小説も音楽も、なんだって同じなのだろうけど、それらはすべて素材の足し算をていて、全体としてなにか特別な力を持っている。むずかしいことがなにもわからなくたって、ガーンと音楽を身体で受け止めたときに心が震えるように、料理もまた全体として人のこころをとらえる力があるのだ。ピザを好きでいるために、ピザをピザ以外のものに分解する必要なんてまるでなくて、私はただ、ただのピザをそのまんま好きでいればいいのだと、無言でピザをほおばりながら考えていた。


 翌日、余ったトマトソースでリゾットをつくった。トマトとチーズと玉ねぎと、ベーコンとお米でつくったトマトリゾット。昨日食べたピザと材料はほとんど同じで、おいしかった。それはトマトリゾットとしておいしかった。

 

今週のお題「最近おいしかったもの」