モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ねこ、ねこを増やせ

 なにも予定のない土曜日の昼はだいたい、寝ている。午前中に家事や買い物を済ませ、昼食を取ってからゲームで軽く身体を動かす。14時ころ、本を読もうとソファに横になって――もちろん、予定通りにソファで読書ができたことなんてない。

 暖房の効いた明るい部屋。薄手の毛布をかぶってうとうとしていると、毛布の端を器用にくぐりぬけて身体を寄せてくる猫が―――いない。夕方、すっかり眠ってしまってぼんやりした頭でキッチンに向かうと、冷たいフローリングの隅でなぜか眠っている猫が―――いない。トイレに行こうとしたらついてくる猫も、いない。猫がいないと思ったら、うす暗い寝室のベッドに重ねた毛布の上に……やっぱりいない。猫は、どこにもいない。

 

 エコーチェンバー現象という言葉がある。SNS上で自分と似たような考えを持つ人とつながることで、自分の主張があたかも一般的であるかのように思い込んでしまう現象だ。

 たしかにそういうこともあるかもしれない。Twitterで猫の写真にいいねをすると、次から次へと猫の写真が流れるようになってくる。キッチンに水を飲みにくる猫、膝の上で眠る猫、床に転がっている猫、朝の猫、昼の猫、夜の猫……日常に猫のいる風景をこれでもかというほど浴びせられ、猫がいる日常が当たり前のように思えてくる。そして、ある日疑問を抱く。いったいどうして、わが家に猫がいないんだろう?

 

 そんなことを言っていても、この部屋に猫が現れることはない。ペット不可の賃貸だからだ。……いまいましい。とはいえ、そんなことをいつまでも言っていても仕方がない。そこで私は、自力で猫を増やすことにした。増やすのは、カレンダーの上である。

 

 モチベーションを保つのは、簡単なことではない。ブログを書くのは一番好きなのだけれど、疲れる。ブログを書くときほどではなくても楽しいことは他にもたくさんあって、そっちに目移りする。

 だから、モチベーションを保つためにカレンダーに猫を書くことにした。ブログを更新した日付に、一匹の猫を。

 ほんとうは、子どもがお野菜を食べた日に印をつけるように、シールを貼ろうと思っていたのだ。しかし、ずっと使わずに机の引き出しに入れていたはずの丸シールがない。そこで、シールを貼るかわりに猫を描くことにしたのだ。印が増えればモチベーションが上がる。増えるのが猫ならば、なおさらだ。ブログを書けば書くほど、部屋には猫が増えていく。猫、猫をふやせ。

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猫…

 猫を…

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……猫?

 

 

 シールを買おう。

 

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新春ドン引きカレー

 クリスマスに食べるシュトーレンにも、喫茶店のモーニング・サービスにもそれはある。端午の節句に飾るこいのぼり、ネクタイの模様、ごはんの前の「いただきます」にも。どんな慣習もたったひとりの思い付きからはじまる。こんなことしたらおもしろいかも。これは便利かも。こうしたら、なんとなくいいことありそうじゃない?そんな一度の思い付きがやがて習慣となり、やがて周囲に広がっていく。いい考えだ、真似しよう。うちでもやってみようか。それが長い間繰り返されて、たったひとりの思い付きだったものは、いつしか習俗や伝統になる。

 

 その意味において、これもまたいずれ伝統になる習慣のひとつと言っていいだろう。伝統の赤ちゃんと言うべきか――正月明けに食べるカレーのことだ。

 

 1月3日、夕方に私はカレーをつくっている。毎年のことだ。ここ数年の記憶をさかのぼってみたが、覚えている限り私はカレーをつくっている。カレーは、なんといってもこのタイミングにつくるのが最適なのだ。三が日の間大いに休み、大いにだらけた後でつくる最初の料理は、とにかくだるい。正月明け早々、凝った料理などつくりたくない。でも、カレーは簡単につくれる。それも、一度に大量につくれる。さらに、味もすばらしい。蕎麦やらおせちやら餅やらと、お正月に食べる和食になじんだ舌にとって、カレーの味はピリッとして新鮮だ。つまるところ、カレーは正月明けにつくり、食べる食事としてこのうえない料理なのである。

 

 これだけ正月明けに適性のある食べ物なわけだから、もしかすると、すでにどの家庭でもカレーを食べているのかもしれない。私が知らないだけで実は。元旦にはお雑煮を食べ、おせちを食べて、四日にはカレーを、七日に七草がゆを食べるのが正々堂々お正月のスタンダードになる日もそう遠くない……かもしれない。そういえば、七草がゆの由来は「正月に食べすぎた胃を休ませる」ことにあるだとか聞いたことがある。年末年始にごちそうを食べ、カレーのスパイスでヒリヒリした胃を七草がゆで休ませるという流れはまことに合理的である。やっぱりカレーがぴったりなのだ。

 

 今年のカレー始めは、大根と鶏肉のカレー―私はこれを「ドン引きカレー」と呼んでいる―に里芋を加えた。大根と鶏肉だけではややあっさりしすぎていたのが、里芋を入れることでやや食べ応えが増す。里芋入りドン引きカレーをつくるにあたり「カレー 里芋」でググってみたところ、検索予測に表示されたのは「カレー 里芋 まずい」の文字。でも大丈夫。おいしいカレーができた。

 

 ちなみに、「ドン引きカレー」の名前の由来はこのレシピの出所にある。今思い出しても辛い――いや、苦い思い出だ。ある日、知り合いがTwitterで大根と鶏肉のカレーを紹介していた。それを見てさっそくつくってみると、これがなかなかおいしい。その知り合いと顔を合わせることがあったのでそのことを伝えると、どうも反応が鈍い……というよりむしろ、「は、はあ……」ドン引きれている。なんで?

 

 その知り合いとは接点もなくなって、今はTwitterでもつながっていない。それでも、大根と鶏肉のカレーだけはときどき思い出したようにつくることがあって、そのたびにあのときのことを思い出す。もう何年も前の話なんだけど――それにしてもやっぱり、なんでやねん?納得いかないですよ、ブツブツ…。

 このブログを読んで、もしも正月明けに里芋入りドン引きカレーをつくりたくなったら?それは、ドン引き……なんて、しませんよ。伝統の赤ちゃんなんだから。

 

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ほんの記録(12月)

 そういえば、ちょうどこれくらいの時期だったかもしれない。雪の降る日。鞄に本を詰め込んで、大学のバス停にやってきたバスに飛び乗った。ついさっき、卒論を学務に提出したところだった。

 

 駅のバスターミナルで降りて、長距離バスに乗り換える。はじめて行く場所なので、降りる場所を間違えないか気が気でなかった。能登半島の先っぽの、海に近い町で降りる。町、といっても、何もない場所だ。バス停に降りるとあたり一面は手品のテーブルクロスをひろげたみたいに真っ白で、気がつけば、さっき一緒に降りたはずの何人かの乗客の姿も消えていた。

 グーグルマップを頼りにたどり着いた冬の寂しい海を散歩して、古くて小さな宿にチェックインする。これから二日間、何をしても自由だ。

 

 鞄から本を出して、布団のうえに広げる。小説、図鑑、漫画、図録…卒論を書き上げるまでの間に買って、これまで読めずにいた本の数々だ。決してすてきな宿とは言えないが、いつでも温泉に入れて、黙っていても食事が出てくるだけでもう申し分ない。畳の部屋でごろごろして本を読み、好きなときに居眠りをして、好きなときに温泉に浸かる。幸せな二日間だ。

 

 このとき以上に幸せな本との時間は、なかなか出会うことができない。あの頃と比べればはるかに自由に本を買えるようになったいまでもだ。それでもまた本をひらく。このページのなかにある世界が、これから始まる本との時間が、これから忘れられない思い出のひとつになるかもしれないから。

 

 

 

武川忠『作品鑑賞による 現代短歌の歩み―斎藤茂吉から俵万智まで―』飯塚書店

 近代以降の短歌史を勉強したくて本を探しているのだけれど、なかなか思ったような本に出会えていない。アンソロジーとか、個別の歌人を取り上げた批評はたくさんあるんだけどな。

 この本も戦後から現代にかけての歌人を順に取り上げていくという感じで、それぞれの歌人がどういう問題意識を抱いて作歌をしたのかとか、後世にどういう影響を与えたのかといったことは書かれていない。ちょっと残念。

 

佐藤信夫ほか『レトリック事典』大修館書店

 図書館で借りて読んだあと、買わないままでいた『レトリック感覚』とあわせて購入。ことばや論証に関わる技法が全部つまっていて、例文とその分析もたっぷり載っている。ちょっと高かったけど、得したかも。

 

歌集ほか

 

その他

 

 12月に買った本も読み切らないのに気が早いかもしれないけれど、今年はどんな本との出会いが待っているのか楽しみだ。今年も素晴らしい本に出会えますように。

 

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買い物占い2022

 にがてにがて、お金のことを考えるのは苦手。節約や運用のことを考えるとからだがムズムズしてじっとしていられなくなる。まだ掃除をしたほうがマシだ。それでも人並みに将来に対する不安はあるものだから、結局のところ、上手にお金が使えない人間が生まれる。多分私はまだ、お金の上手な使い方をよくわかっていない。

 

 お金というものはつまるところ、交換券なのだと思う。お金に価値があるのはそれと引き換えに何かを手に入れられるからであって、お金それ自体に価値はない。だから、お金を貯められる人こそが上手にお金を使っているというわけではないのだろう。お金を上手に使える人というのは、お金と引き換えに何を手に入れるべきかを知っている人なのだと思う。

 

 そういうわけで、なにかを買って「買ってよかった」と感じることができたときには、なにかとてもすばらしいことがそこで起こっている。私はお金を払って、その品物を手に入れる。それは、お金というこの紙っ切れにはできないような価値をもたらしてくれて、私は幸せになる。公園を散歩しながら好きな音楽を聴いたり、あたたかいパジャマで眠ったり、DVDを見て笑ったり、お酒を飲んでいい気持ちになったり。いい買い物って、なんて幸せなんだろう。

 

 生きていくにはお金が必要で(それはときどき私をひどく悲しい気持ちにさせる)、裏を返せば、お金が生活をつくっている。今週のお題「買ってよかった2021」には、人と物との幸せな出会いにあふれていて、その出会いがいったいどんな2022年をつくっていくのだろうと、想像してみる。

 自転車を買ったこの人は?コンタクトレンズをつくったこの人は?きれいなランプを買ったこの人は、このランプをつけてどんな夜を過ごすだろう。髭剃り、今朝も使ったかな?新しいカメラのレンズを買ったこの人は、今年どんな写真を撮るのだろう?いくつもの「買ってよかった」はすべて過去の出来事でありながら、その人にとっての2022年を少しだけ暗示しているようにも思える。お金は生活をつくっている。

 

 では私自身が「買ってよかった」物は何かと言うと、毛の短いラグだ。前に使っていたラグは無理やり風呂に入れられた後の犬みたいに毛がへたへたで、長い毛にゴミが絡まるものだから、風呂上りのわりにはちょっと不衛生でもあった。もう長らく使っていることだし、と新しいラグを買う。もうシャギーラグはやめにして、毛のループしたカーペットタイプ。手入れしたての柴犬の背中みたいで気持ちがいい。

 年末年始は、この柴犬の背中の上に寝転んで毛布にくるまり、ストーブにあたりながら本を読んでいた。なんてすばらしいんだろう。でもこの調子だと、私の2022年は床に転がっているだけで終わりそうだ。ときどき居眠りをして。

 

 ちなみに、「買わなければよかった2022」というのもある。これは人と物との最悪の出会い方だ。お金と交換して手に入れたにも関わらず、大して気に入らなかった、使わなかった、すぐ壊れた、おいしくなかった、腐らせた、似たようなものを既に持っていた、サイズが違った、似合わなかった、使う機会がなかった、などなどである。

 

 「買わなければよかった2021」の一位は、座ったまま使えるエアロバイク。これならTVを見たりゲームをしながら運動ができる!ゲームをしながら、運動をしていないことに対する罪悪感を解消することができる!と喜び勇んで購入したモノの、2週間で置きものになった。今はデスクの下で埃をかぶっている。そのうえ、それなりに図体が大きくてデスクから少しだけはみだしているものだから、時々足をひっかけて転びそうになる。

 なんだか、ますます床に転がっているだけの2022年になりそうである。

 

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今週のお題「買ってよかった2021」

明けまして、多すぎる

 年末年始は、どうもしきたりが多すぎるような気がする。年末の大掃除に始まって、年越しそばに除夜の鐘。年が明ければ、初詣。正月飾りに鏡餅、門松、おせち。年賀状にお年玉。お雑煮、お屠蘇。元旦はお風呂に入らないだとか、掃除をしないだとか、行動に関する習慣もある。正月飾りひとつをとっても、いつ買うのが縁起がいいだとか、飾る場所はどこだとか細かい決まりがあって、これをひとつひとつこなしていくのは相当に大変だ。

 

 実家に帰らずに過ごす、二回目の年末年始。一回目の去年は年末年始が仕事だったので、日々の過ごし方に気を配る余裕もなかった。今回は、一人暮らしの家でフルに過ごす初めての年末年始。ひとりで「ちゃんとしたお正月」を遂行しようとして愕然とするのが、このしきたりの多さである。こういうしきたりがあることはもちろん知っていたし、やってもいた。なんでもないことのように。でも、それをひとりで、ひとつひとつ遂行していくとなると話が違ってくる。まず、そばを茹でる時点ですでに面倒くさい。結構大変じゃない?お正月。

 

 年末から年始にかけてのSNSをぼーっとながめていると、2021年の振り返りや、新年に向けた抱負の言葉がいくつも流れてくる。ふしぎだ。

 1月1日をその年の最初の日とする暦は、あくまでも私たちがつくった決まりごとに過ぎない。そこに天文学的な必然性はない。中国では現代でも旧正月にあたる春節が一年でもっとも大切な日とされているし、かつては日本でも旧暦で正月を祝っていた。

 それでも、お正月は特別な日だ。正月が近づくにつれて、この一年はどうだったかななんて振り返ったり、これからやってくる未来に思いを馳せたりする。毎年年末になると自殺のニュースがやたらと目に入って気が滅入るのだけれど、これだってそのことの裏返しなんだろう。未来のことを考える。いろいろな人が、いろいろな仕方で。

 

 初詣に行っておみくじを引いたら、末吉だった。おみくじの結果なんかに一喜一憂しない……と言いつつも、悪い結果が出ると気になる。少しでも運気が良くなるようにと、しっかりと木に結わえて帰る。そういえばおみくじをめぐるこの一連の行為もまた、しきたりのひとつだ。

 

 年末年始をめぐるしきたりの多さは、同じ分だけ、人の気持ちの多さだと思う。新しい年がやってきて、それぞれがそれぞれに未来のことを思う。今年はいい年になるといいなとか、ご縁に恵まれるといいなとか、健康に過ごしたいとかそういうことに思いを駆けさせる。そばは噛まずに食べましょうだとか、ダジャレみたいな縁担ぎのおかずばかりが入ったおせちは、この一年の幸せを願う祈りの結晶なんだ。

 

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 あらためまして、明けましておめでとうございます。昨年も一年間お世話になりました。このブログは本当に何の役にも立たないものではありますが、それでも読みに来てくださる方がいることに、励まされています。全身の臓器がいっしょになって声を出しても足りないくらい、感謝しています。

 

 1月1日からはじまる一年間を考えるとき、これまでは「新しいことを始める」ことを目標に置くことが多かったように思いますが、今年は辞めることや捨てることも含めて、主体的に選んでいく、変えていく一年にしたいと考えています。もう、新しいものを受け取るばかりでもないな、という気持ちです。

 ちなみに、年末年始のあれこれのなかでどれほど実行できたのかというと、結局年越しそば(カップ麺)くらい…。カップ麺並みのほどほどの意気込みで頑張っていきます。

 

 本年もお付き合いいただけると幸いです。皆さまにとっての一年が、素晴らしい日々になりますように。

 

 

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