モリノスノザジ

 エッセイを書いています

かたちのかたち

 それまで特になんでもなかったものが、あるときから急に気になりはじめて、とても無視できなくなってしまうことがある。言っておくが、恋ではない。マグカップのふちをなぞっていた指が、マグカップの欠けた部分に触れて、それからずっとそこをなぞってしまうような。上の臼歯に挟まった筋に気がついて、舌の筋肉が千切れそうになるくらいずっと、そこを舌でこすってしまうような、そう。恋ではないそれは、どちらかというと気持ちをそわそわさせる。高揚させるというよりはむしろ。

 

 たとえばそれは、電車の放送で聞く『インプラント』。私が毎朝乗る電車では、次の駅が近づくたびに車内アナウンスが流れる。電車じゃなくてもあるでしょう、バスがバス停に近づくたびに、地下鉄が駅に近づくたびに流れるあの、あれ。これこれこういうアナウンス、と言えないのは、それを私がまったく思い出すことができないためだ。次に到着する駅の、その近くにある病院だとか専門学校だとかの名前を言っているような気もするけれど、具体的にどんなアナウンスが流れているかは何も思い出せない。それなのにただ『インプラント』だけが強烈に耳に残っている。

 

 『インプラント』はおそらく、次に止まる駅の近くにインプラントの治療ができる歯医者があるよ、という内容のアナウンスに表れる言葉だ。「おそらく」と言うのは、その前後で何を言っているかほとんど記憶がないからで、それなのに『インプラント』だけはちゃんと耳に入ってくる。

 

 『インプラント』が気になるようになったのは、いつからのことだろう。気がついたら気にしていた。あのアナウンスが人によって読み上げられたものなのか、電子音声によるものなのかはわからないけれど、『インプラント』の『イン』にやたらと強いアクセントが乗っていて、それがやや不愉快なくらい耳に届いてくる。本を読んでいても、Twitterを眺めていても、どこからともなく『イン』『プラント』。気がついたら気になるようになっていたというのは、この広告が最近になって新たに放送されるようになったということなのか、それとも『インプラント』を気にするようになった私の気持ちの方に変化があったのか。その電車に乗らずに家に帰る方法がないので仕方なく、朝夕二回の『イン』『プラント』を浴びる日々だ。

 

 

 それまで特になんでもなかったものが、あるときから急に気になりはじめてしまうことがあって、たとえばそれは「かたち」。職場の後輩がやたらと「かたち」をつくる。いや、つかうのだ。後輩の話す電話の声が、聴き耳を立てているわけでもないのにやたらと大きく入ってくる。

 「今週の土曜日ですと、他の業者がちょうど同じ場所で作業をしているかたちになりますので、ちょっと譲り合うかたちで作業していただくかたちになりますね」

  …いや、別に日本語の乱れだとか、そういうことを偉そうに言いたいわけではない。私もつかうし、「かたち」。でも、それにしても多すぎはしないかと思うのだ。多分彼は、「かたち」が口癖になっている。

 

 「かたち」とはちょっと違うけれど、この間読んだ本にこんなことが書かれていた。

 

  次のふたつの文は、微妙に意味が違う。

(3) 私が説明します。

(4) 私から説明します。

 (3)のガでマークされた「私」は、説明の責任主体である。私が私の責任で説明を行う。(4)のカラでマークされた「私」は、起点としての場所にすぎない。私は、直接的な責任主体というよりも、ある場所(組織)に属する一員として、その場所に属する者を代表して説明する、という意味合いである。責任主体をぼやかした表現となる。

 

 この違いは、責任主体を第三者に置き換えればもっとはっきりする。述部も少し変化させよう。

(5) Aさんが説明した。

(6) Bさんから説明(   )。

 (6)のカッコにはどのようなことばを補えば自然な表現となるだろうか。

                ――中略――

(8) Bさんから(の)説明があった。

 (8)の表現の中心は、「説明があった」である。「説明」というモノが「あった」という、事態の存在を表す。「説明」がBさんを起点として、そこから飛び出して、認識の場にとどまっている様を表す。Bさんの責任主体としての役割は、(4)の「私」よりいっそう遠のく。 

 

瀬戸賢一『よくわかるメタファーー表現技法のしくみー』ちくま学芸文庫

 

 後輩が電話先の相手にした説明を、私だったら「今週の土曜日は、他の業者が同じ場所で作業していますので、ご注意ください」と言うだろう。われながらすっきりしていると思うけれど、きっと後輩はこういう言い方ではまずいとか、物足りないと感じるのだろう。例えば、ことばが足りなさ過ぎてごつごつしているだとかそういうふうに。

 

 「かたち」はその言葉の本来の意味に反して、言葉の形をあいまいにする。「作業をしているかたち」ってなんなんだ?「譲り合うかたち」ってなんなんだ?ガではなくカラを使う表現が責任主体のありかをぼやかしてしまうように、「かたち」にもまた、どことなく言葉の角を取ってしまうようなところがある。「かたち」を使う側の考えとしてはおそらくクッション言葉と同じような認識で、ごつごつした言葉の角をやさしくくるむような表現なのだろう。「かたち」という表現は、相手に直接的な言葉をぶつけないように、やさしく、ていねいに、という気持ちのかたちだと思う。

 

 

 口癖というものは、往々にしてそれを言っている本人は意識していないものである。だから――なのかどうかはわからないけれど、口癖を指摘されるのは恥ずかしいことだ。私自身、意識しないままに「天才」という言葉を頻発して、友人にそれを指摘されたときには気恥ずかしい思いをした。レシピのなかのキャベツをアスパラに変えたらおいしかったとか、休日の朝に雨が降っていて目覚めたとか、そんなちょっとしたことで私や日々は天才になる。天才になっていた。恥ずかしい。

 

 口癖を指摘されるのはしばしば恥ずかしいことだから、彼の「かたち」を指摘することはしない。悪いことでもないのだし、私だって話している言葉はめちゃめちゃだ。「あ」とか「ちょっと」みたいな無駄な言葉を挟んだり、言いよどんだり。指摘しない代わりにこれからも私は、彼の「かたち」が気になりつづけるのだろう。それとも、いつか気にしない日が来るのだろうか?『イン』『プラント』も、彼の「かたち」も。

 

野球選手にならない人生

 サントリーの「CAFE BASE」すっきり甘いアーモンドラテを飲んでいる。340ml入りのペットボトルにアイスコーヒーの原液が入っていて、牛乳で希釈すれば約10杯分の量。数カ月前にはじめてスーパーで見かけて購入したのだけれど、カフェで飲むような飲みものを自宅で牛乳で割ってつくるなんて、なんか時代だな、時代の生きものになっちゃったなって思う。カフェベース自体はコロナ以前からもあったはずだけれど、この「CAFE BASE」シリーズ、ベーシックなアイスコーヒーやカフェオレのほかにもキャラメルやアーモンドのフレーバーがついたものや、紅茶タイプのラインナップもあって、まさに「おうちカフェ」なのだ。

 カフェインに敏感な私は休日の午前中しかこれを飲むことができないのだけれど、いま一杯飲み終えて物足りない気分になっている。人ってもしかして、制限されるとほしくなるのか。別に誰に取り上げられているわけでもないけれど。

 

 制限があれば、もっとしたくなるのだろうか?最近がんばっていることは、短歌。それと、実は去年から戯曲を書いている。でも、どちらもがんばっているって胸を張れるほどがんばっているわけでもない。短歌に関しては、所属している短歌同人の同人誌発行を秋に控えていて、それと、今年はなんとなく短歌をがんばりたいなという気持ちもあって、毎日何かしら取り組むようにしている。

 誰に強いられているわけでもないはずなのに、歌集を読むことはときどき苦痛だ。苦手な・わからない歌というのが私にはたくさんあって、そういうタイプの歌集は放りなげたくなる。歌のなかには書かれていないことを、さもそこに書かれているかのように見出すことができる人たちのことを私はふしぎに思う。まだまだ読み手としての能力が足りない、とも感じる。それなのに、わからない歌のそれでもすごい・いい歌だということだけはひしひしと受け取ってしまって、自分の歌の拙さにちょっぴり落ち込む。そういうのはたいていすぐに回復するけれど。

 戯曲は昨年から書いていて、しかし読みかえしてみたらめちゃめちゃである。今年の1月から3月にかけて書いた作品を書き直すべく、プロットから見直しているのだけれど、この作業がつらい。せめて1日に30分でも時間を取ろう、とは思うのだけれど、なんだかんだ理由をつけて「お休み」にしてしまう。それは例えば「今日はちょっと眠いから」とか、まあだいたいそういうもので、プリンを食べたりスマホを見たりすることはできるのにプロットを書かないわけで、つまるところ逃げているのだ。

 ブログを書くこともときどき苦痛だ。書いたものを後で見返すと、途中で全然関係ないことを書いていたり、あきらかに話がつながっていなかったりして、それを誰かの前で読み上げられているわけでもないのに、顔がカアっと熱くなる。そういう文章をリペアするには頭が必要で、ときにはうんうん唸りながら自分の不出来な文章と向き合い続けなければならない。〇ボタンさえ押し続けていれば勝てるようなゲームのレベル上げに逃げたくなる。ある種のゲームの、「頭を使わずに達成感を得られる」感は異常だ。

 

 こんなことを続けていていったいなんになるんだろう?と、正気に戻りそうになることがときどきある。去年出会った女性は戯曲を書いていて、いつか戯曲を書くことを職業にできるようになりたい、そのために書いていると話していた。私はそうではない。劇作家になるどころか、この作品を書き上げたところでそれが誰かの目にふれることすらないかもしれない。小さくても劇団に所属していればそれを舞台にすることが可能かもしれないけれど、それもない。ただ会話を書くことがたのしくて、たのしくてただやっている。

 ブログだって同じだ。同じようにブログを運営している人にはそれで生計を立てている人だっているのに、このブログときたら金を稼ぐどころか反対にお金がかかっているのだ。つまり、この文章を私はお金を払って書いている。お金が目当てでなくても、ブログをきっかけにどうにかなりたいともくろんでいる人もなかにはいるんだろう。実際、ブログ経由で本を出版したり、そういう道に進む人もいるわけなんだから。

 私の場合、まあ、自分の書いた文章をたくさんの人が読んでくれたらうれしくないわけはないけれど、そういう話はなんだかまったく自分には関係ない話のように思える。スターの数も、訪問者数も長らく数えていない。書いていて、誰かがそれを読んでくれていればそれでいいような気もする。

 なにか好きなことの先に「何かになる」とか「お金を稼ぐ」ということがあるとして、そういうものもあるとして、そこを目指しているわけでも、そこにたどりつけそうなわけでもないことに時々ふっと気がついてしまって、「正気に戻る」。でも、それってどうなんだろう。

 

 ある野球好きな子どもが、親に「将来は野球選手だね」と言われて育って、でも結局野球選手にはならなかったとしたら、その子どもがやってきた野球はなにか無意味なものになるだろうか。あるいは、ただ楽しいだけで野球をやっている子どもは、無駄なことをしているのだろうか。そう言えば何人かの人は「そんなことはない」と言ってくれるんじゃないかと思う。私もそう思う。だとすればなぜ、私が戯曲を書いたりブログを書いたりすることの先には何かがなければならないのだろう。そこに何もないことに不安を感じてしまうのだろう。私はたのしいだけで、本当はそれでいいはずなのに。

 

 なにもかもに口コミがある。買おうとしている空気清浄機のレビューをAmazonで確かめて、行ってみたいレストランを行く前にネットで検索する。シャンプーを買う前に、化粧品サイトのランキングをチェックする。そういうことが当たり前の生活だ。そして、そうするときに私が考えていることは「無駄にしたくない」ということ。間違えないように、このお金はできるだけ「正解」に結びつくように。何かをまちがえている余裕なんて私にはなくて、お金も時間もいつも正解だけに費やしていたいのだ。

 

 「何か」にたどりつけるかわからないような、あるいは何にもつながらないと分かっていて、それとも目的もなく趣味を続けることは、無駄だ。時間を費やしたわりにそれが何らかの「正解」につながる保証なんてない。だけど、それはある意味で贅沢なことでもあるし、すべてのことに見返りを求めるような、そういう生活の姿勢に立ち戻ることのほうが本当に「正気に戻ること」だと言えるのだろうか。

 

 はじめて短い会話を書いたとき、心が震えた。何年ぶり、何十年ぶりだろう。幼いころ夢中でクレヨンを握ったときのような、懐かしい感情を思い出した。

 たのしいことなんだ。趣味がお金やたのしさ以外の何物かに通じるものであること、何かに没頭するということがただそれだけのためのものであると考えることを「正気である」と言うのであれば、私はずっと正気に戻れなくてもいい。無駄だとかそんなこと考えないくらい、ずっと夢中で狂っていたい。そうじゃないのなら、それが私にとってただ苦痛でしかないのなら、いつでもやめてしまえばいい。私にブログを、短歌を強いる人は誰もいない。この場所はただ、私がしたいっていうそういう気持ちだけを頼りに存在している。

 

 こういうことを書いてしまうのは、実のところ、迷いがあるということなんだろう。いつもそうだ。確信しているみたいな書きぶりで、本当は私自身が一番迷っているのだ。行動の対価として何かを得る、というやり方にあまりにもつかりすぎてしまっている。これを続けていてもなんにもならないじゃん、ってそう言うのは他人じゃなくてほかでもない自分だ。

 

 だらだらとTwitterをみていたら、ハムスターの画像が流れてきた。ハムスター、キャベツを与えられてうれしそうな表情をしている。キャベツを持ったまま目を細めている。ああ、こういうふうに生きればいいのにな、と思った。好きなことをして幸せになって、自分がそういう状態であることに疑いを持たないで。

 生きることはこんなに単純なことなのに、ときどき複雑にしすぎてしまう。好きだって、それだけで迷いなく書いていければいいのに。それだけなのにな。

 カフェラテだけは今日、二杯目を飲んだ。

 

ほんの記録(5月)

 一人暮らしを始めてもう10年以上になる。15年未満、それ以上の詳細を数えるのは面倒だからやめておく。思えばこの間、恋人と同棲…することもなく、結婚。することもなく、引越しは3回くらいしたけれど、まあ10年以上15年未満の間に3回なのだから特別多いというわけでもない。生活環境が大きく変わるような出来事が取り立ててないまま、この10年以上15年未満を過ごしてきたわけだけれど、そうは言っても生活の細かいディティールは変わるもんだな。

 最近は21時を過ぎたらPCもテレビも携帯も電源を切って、ベッドの上で白湯を飲みながらごろごろして本を読む。それが幸せ。こうする前まではどうやって過ごしていたかわからないくらい、この暮らしがしっくりきている。本を読む時間を暮らしのなかにちゃんとつくると、本が読みたくなってくる。

 これまで2カ月分を1記事にまとめていましたが、6月は毎年たくさんの本を買うので今回は5月。この一か月の、ほんの記録。

 

 

 孫呱『藍渓鎮 羅小黒戦記外伝(1)』

  中国のアニメーション映画『羅小黒戦記』のスピンオフ漫画。『羅小黒戦記』は妖精(個人的には「精霊」のほうがピンときますが)と人間との共存を描いた物語なのですが、外伝である『藍渓鎮』では人間VS自然という構図、あるいは人間も自然も一緒にハッピーという世界ではないもっと広い世界観が描かれているように感じた。

 元が中国語の横書きなので?、漫画だけど左からめくって読む。新鮮。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

  数カ月前にコミック版が書店の入り口近いところに平積みになっているのを見て、気になっていた。戦争に従事した過去を持ちながら、その経験についてかたく口を閉ざす女性たちを著者が訪ね、聞いた話を一冊にまとめた作品。

 まだ数十ページしか読んでいないのだけれど、どの人が語る話も生々しい。女だと思って半人前扱いする男たちの前で立派な射撃訓練をやってのけて、驚く彼らの前で友達と笑い転げたとか、戦争に出かける朝に母親が何度も何度もキスをして見送ってくれたとか。「女が語る戦争」にいったいどんな意味があるのか、男が語る戦争とは何がちがうのだろうかと考えながら読んでいる。これまでにいろいろなところで語られてきた「戦争」がすべて男性目線で語られてきた戦争であるとすれば、私のなかにある戦争のイメージもまた一面的なものに過ぎないのかもしれない。

八杉龍一編『ダーウィニズム論集』

 ダーウィニズム、というかダーウィンの理論のことを、恥ずかしながらきちんと理解していない。なんとなくガラパゴス諸島的な…進化論的な…的なイメージがあって、一方でこの思想が優生思想の持ち主に誤ったやり方で利用されたりもしているんでしょう?みたいな浅い認識で、つまるところ私はダーウィニズムを優生思想と同一視する人と同じか、それ以下くらいの知識しか持ち合わせていないのだ。

 この本には、ダーウィンが『種の起源』を著した1859年からおおよそ50年間の間に起こった論争を追うようなかたちでいくつかの論考がまとめられている。論考らしく難しい言い回しも多いけれど、がんばって読もう。

 橋爪志保『地上絵』

 帯に書かれていた「I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる」という短歌の、言葉の壊れかた、そして「I am a 大丈夫」「ゆえ」「You are a 大丈夫 too」という論理の壊れかたに衝撃を受けて衝動的に買った。解説は宇都宮敦さん。宇都宮敦さんの歌も好きだから、この歌集もきっと好きな歌集のなかの一冊になると思う。

地上絵

地上絵

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 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 どうしてないのだろう、と思っていた平岡直子さんの歌集。やっと出るんだって、予約購入した。平岡直子さんの詠む歌は自分の詠む歌からはすごく遠くて(もちろん、こうやって実績のある歌人である時点ですでに遠いのだけれど、それ以上に)、これは自分にはつくれないなあという気持ちと、それゆえに憧れのような気持ちを抱えながら読んでいる。

 岡野大嗣、木下龍也監修『新短歌教室の歌集』

 岡野大嗣さん、木下龍也さんを講師とする短歌教室から生まれた60人の360首を収録した歌集。帯に「この歌集は六十色入りの色鉛筆。カラフルな読書体験へようこそ。」という岡野大嗣さんのコメントが書かれているのだけれど、少しずつ読みながら、ページをめくるごとに世界が変わるような新鮮さがある。一首評が読んでいて勉強になる。

 

 月末時点で読み終わっている本が少なくて、感想というよりは買う動機ばかり書いている気がする。がっかりさせていたらすみません。

 でも、これを書くようになってからは個人的に「ハズレ本」を引く確率がすごく低くなっているように感じる。明確にハズレである本なんてそうそうないのだけれど、自分が読みたい気持ちと選書とがぴったり合っているということだと思う。

 

伊藤さん

 ねこが信頼している飼い主にやるあれ、ゆっくりとまばたきをするやつがいいな。私はねこを飼っていないけれど、実家に帰ると二匹のねこは私のことをまだ覚えていて、ときどきあれをやってくれる。ゆっくりとしたねこのまばたきを見つめながら、おんなじようにゆっくりとまばたきをすると、私とねこの間になにか特別な時間・空間が生まれて、ゆっくりとしたその世界のなかで幸せな気持ちになる。

 

 一方で、ねこは目を合わせるのが苦手だとかいう話も聞いたことがある。視線を向けられると天敵に襲われていると感じるというのがその理由で、だから野良猫を見かけたときにはわざとらしく目線を外して、目線を外したまま何気ないふうを装って近寄るようにしていたのに、あれは無意味だったのだろうか。道理で一度もうまくいかないわけだ。それとも、同じねこでも飼い主と目を合わせるのはよくて、見ず知らずの他人と目を合わせるのはNGなのか。よくわからないけれど、言葉を交わせないねこにとって目を合わせるということはそれなりに大きな意味を持つしぐさなのだろう。

 

 

 いつも行くスーパーに、伊藤さんという人がいる。レジで会計を終えてレシートを渡してくれるとき、伊藤さんはいつもにこっとしながら渡してくれる。うれしい。なんとなく意識してしまって、3回に1回くらいは伊藤さんじゃないレジにわざわざ並んでしまう。伊藤さんがうれしいのに。

 

 この間朝の8時前くらいにスーパーへ行ったら、伊藤さんがちょうど出勤してくるところで、私は伊藤さんが私の住んでいるアパートからそれほど遠くないところに住んでいるであろうことと、伊藤さんは日曜日は朝9時からのシフトであることを知った。

 もうひとつの発見は、私にはいつもにこっとしてくれる伊藤さんがほかの客にはときどき冷たいことだ。レジ待ちの列に並びながら、機械のようにバーコードを通して、決められた手順でマニュアル通りの接遇をする伊藤さんをみる。私に笑顔を向けてくれているというのは勘違いだったのか、と思いそうになるのに、実際に伊藤さんにレジをしてもらうと、伊藤さんはやっぱりにっこりとしながらレシートを手渡してくれて、それで私はうっかり、伊藤さんはやっぱり私にはにっこりしてくれるとそう思い込んでしまうのだ。

 

 先生という職業はさみしくないのかな、と考えたことがある。何年かおきに、あるいは毎年の場合もあるかもしれないけれど、生徒が卒業していくのを繰り返し見送って、自分はいつまでも学校という場所に残り続ける。卒業していく生徒たちを見送る気持ちってどんな気持ちなんだろう、と思ったものだけれど、同じスーパーに何年も通い続けるのも似たようなものかもしれない。スーパーには何人かの学生アルバイトらしき人たちがいて、ある日いつのまにか別の学生アルバイトに入れ替わっている。私は先生ではないけれど、スーパーを卒業していく彼女らを見て、学校に残される先生の気持ちってこんなふうかな、と想像する。

 

 伊藤さんは学生アルバイトではないし、おばさんだから、きっとしばらくの間はいるんだろう。いままでもそうだった。けれど私と伊藤さんとの関係が単なる客と店員の関係であることに違いはない。仮に伊藤さんがスーパーを辞める日が来たとしても、私に断ったりはしない。そんな関係性だ。だから、私が伊藤さんに対してなにか話しかけたりすることは、その単なる客と店員との関係を超えるような行為であるように思われて、私は伊藤さんに話しかけられない。ただ、伊藤さんの目を見ている。

 

 伊藤さんがレジのときににこっとしてくれること、そしてそれが単なる思い込みではないだろうと思うことにはほかにも理由があって、私は店員さんの目を見るようにしている。はじめての店員は、きっと客を目を合わさないことにすっかり慣れ切ってしまっていて、こちらが目を合わそうとしてもなかなか視線が合わない。でも店員さんは機械じゃないから、たとえスーパーの店員であろうと会話をするときには目を合わせるべきだと私は思うし、そう思うから店員の目を見て「ありがとうございます」と言う。

 私が見ていることに気がついた店員は、視線を合わせられていることに驚いたような表情をしたり、何かを要求されているのかと勘違いして、私は何も言ってはいないのに「はい?」と聞き返してきたりする。そういう反応をされると、スーパーの店員がほかの客と普段どういうコミュニケーションを交わしているのかが想像されて、ちょっとかなしい気持ちになる。店員も人間で、人間である以上レジでのお会計も私たちが交わす会話のひとつなのに。

 

 伊藤さんがレジの後ににこっとしてくれるようになったのは、そういう視線でのコミュニケーションを経たからだ。私はそう思っている。伊藤さんがそのコミュニケーションに応えてくれること、にこっとしてくれることがうれしくて、何かでそれに応えたいと思うのだけれど、スーパーの客とスーパーの店員との間で取るコミュニケーションの種類を、私はこれ以外に知らない。だから、せめて今日も伊藤さんの目を見てレシートを受け取る。

 ゆっくりとまばたきをするねこは、もしかしたらこんな気持ちなのだろうか、と想像する。私たちは人間同士なのに、いろいろな理由でときどき上手に気持ちを伝えることができなくて、ただ目と目を合わせて会話する。ねこと人間がそうするように。

 

もっと積極生活宣言

4:43am

 雨の音で目が覚めて、ぼんやりした頭のままスマートフォンの画面をこすっている。だれかのツイートに「自粛生活」ということばをみつける。

 

 

 緊急事態宣言が出されて、北海道も生活が変わった。土日には、食料品などを扱う一部のフロアを除いてデパートが休業となり、飲食店は夜8時に閉まった。公共交通機関の終電は約30分繰り上げられ、街は閑散とした。といっても、これは全部伝聞であって私が直接見たことではない。テレビ画面に映る札幌とかいう街の風景は、たしかにいつもより人が少なくて元気がないみたいだ。緑だけが、ようやく芽吹きの季節を迎えていきいきと輝いている。

 

 わが社では社員の7割も在宅勤務できるだけの環境が整っていなくて、というか、そもそも在宅勤務が難しい職場ということもあって、多くの社員は出勤している。一部の社員は届け出をして在宅勤務をしているようだけれど、実態は在宅”勤務”とはほど遠いものであったり、出勤簿では在宅になっているはずの社員が実際には職場にいたりして、その実効性はかなり疑わしい。出勤簿に表れる在宅勤務率の数字がウイルスの蔓延を防いでくれるんだったらいいのだけれど、身体が職場にあるのではなんの意味があるのだかわからない。

 そういうわけで、在宅ができない社員は宣言期間中積極的に休暇を取得することになった。心に後ろ暗さを抱えながら「在宅勤務」をするくらいならそのほうがマシかもしれないけれど、宣言期間中だからと言って仕事が減るわけでもなく、むしろ増えているくらいでもあるわけで、休めばその分有休も減るわけで、なかなかうまい具合にはいかないものだ。

 

 

 休暇だというのにまだ日も明けないうちから目が覚めて、5時半には早めの朝食をとる。いつもなら二度寝するところだけれど、なんとなくそういう気もしないので起きることにした。階下に音が響かないよう注意しながら軽い掃除をして、24時間営業のスーパーに出かける。朝の時間帯だからか、生鮮食品の一部が特価になっていてうれしい。今日から三日分の食材を買いためて、まだ人通りの少ない道を歩いて家に帰る。

 

 休みの日、というのはなんだかんだでいろいろとやることがあるものだけれど、こうやってボーナス的に手に入った「休暇」には、普段の休みにはできないような時間の使い方もできる。ずいぶん放置していたFit Boxingを起動して汗を流すだとか、ブログの記事を書くだとか、クッキーを焼いてみるとか、そういうこと。

 クッキーはバターと牛乳と砂糖と薄力粉だけでつくれるお手軽クッキーで、まわりにも砂糖をたっぷりとまぶしてきらきらにする。手作りお菓子なんてこのクッキーくらいしかつくれないけれど、このクッキーが好きだからこれでいいのだ。クッキーを冷蔵庫で寝かしながら、焼きそばをつくって食べる。期間限定中華味、らしい。

 

 午後からは「HOPPY HAPPY THEATERhttps://hoppy-happy-theater.com/」で短編映画をみる。短編映画専門のインターネット映画館で、会員登録不要。毎週1本新しい作品が追加されるのだけれど、過去に追加された作品が入れ替わりでみられなくなる…ということはなく、いつでも好きなときにみたい作品を視聴できるのがうれしい。時間も短いから、空いた時間にサクッとみられる。もちろん、複数の作品を連続でみることも。

 インターネットを探せば――特にこの状況で、こういうサイトはたくさんあるのだけれど、ポイントカード持ちたくない系人間の私には、会員登録なしで作品がみられるってだけですごくポイントが高い。この日にみたなかでは『The Silent Child』とか『Agnes』がよかった。『The Eleven O'clock』も。 みたあと単純にハッピーになる作品ばかりではなくて、次の作品へ行く前に立ち止まる時間を必要とする作品もあって、この後味の多様さがいいなあとも思う。

 

 

 ずいぶん幸せだ、と思う。時間をかけて料理をすることも、部屋を清潔な空間に保つことも、家にいて好きな映画をみることも。世間ではなんだかんだ言われているけれど、もともとインドア派の私にとって外出が制限されることはそれほど痛手ではない。コロナ禍と言われる状況になってからはむしろ、オンラインで享受できるコンテンツが増えたり(そのなかにはもちろん、決してリアルの代替にはならないものも含まれているのだけれど)、会社の飲み会や休日のイベントがなくなって、大手を振って家にいられるようになったりだとか、むしろ私生活を充実させる方向につながった面も多い。

 ネットで配信されている映画も演劇も、1日24時間しか時間を持たない私には手に余るくらいだし、たのしいゲームは時間泥棒だ。本を読んでいたらあっというまに夕方になる。なにをするにも時間がかかる、その時間をたのしむのに、家にいるのが長すぎるなんてことはない。

 

 家にいることが苦痛だと言う人がいることはわかっている。私がインドアの生活を好むのと同じように、アウトドアの趣味を好むひとたちもいる。苦痛どころじゃないひとだっている。外出が制限されることによって生活の糧を失ったひともいる。わかっている。だから、私は幸せだなんて言っちゃいけない気がしていた。

 それはなんとなくあの地震の後の、地震による影響はたいしてなかったにも関わらず自分は幸せだなんて間違っても大きな声では言えなかったころのことを思い出して、そういえばあのときもそれは「自粛」と呼ばれたんだ。考えれば考えるほど、私が幸せに暮らすこと、「世の中には苦しんでいるひともいるのに」そうすることは罪なように思われて、指の先がぶるぶる痺れる。

 

 でも一方で、私の頭のなかのすごくクリアな部分に住んでいるひとが、どうして自分も苦しいふりをしなくちゃいけないんだ?と問いかけてくる。世の中には苦しんでいる人がいる、それは事実だ。でも、その事実から自分もまた不幸せでなければならないということは導かれない。それはばかげた飛躍だ。

 たとえば「世の中にひとりでも苦しんでいる人がいるならば、残りの人もみんな同じように苦しまなければならない」とでも言うのであれば、やっぱり私は幸せでいてはいけないのかもしれない。でも、そんなの狂った考え方だ。別に幸せでもいいだろ、誰が不幸せだったとしても。

 

 それに、私が幸せになることは、私以外のひとをちょっとだけ幸せにすることにも繋がっている…かもしれない。お店で品物を買えば、私はその品物で幸せになり、お店の人は収入が入ってちょっと幸せになる。「お金を払って物を買う」っていうのは、そもそもそういうことだ。私が自由に使えるお金の額なんてたかが知れているけれど、たとえそうであったとしてもなにか問題があるだろうか?私は、私の範囲をちょっとだけ生活を拡張して、それくらいで別にいいんだと思う。

 

 ちょうど一年前くらいには、牛乳が余って牛さんが病気になってしまうのだとかそういうことが言われていて、牛乳が嫌いなのにがんばってたくさん牛乳を買ったりしていたことを思い出す。いつの間にかそういうこともあまり言われなくなって忘れていたけれど、今も多くの人は旅行をしていないし、外食する人も減っただろうし、食材をつくっている人にも困っている人がいるに違いない。

 そう考えて先月から、「北海道つながるモールhttps://www.sos-sapporo-cci.org/」で道産食品を買うようにしてみた。まずは、前からずっと食べてみたいと思っていたチーズだ。ファットリアビオというチーズ専門店の商品で、厚く切ったチーズをステーキにする。胡椒とオリーブオイルをかけて食べると、これが思わず声が飛び出るくらいおいしい。もともと食にそれほど興味のない私にとって、おとりよせグルメはどれも普段の生活にはあらわれない高級食材にみえる。それでも、3,000円くらい出せばこんなにおいしいものが食べられる。普段ろくなものを食べていない私にとっては、それだけでも十分に新しい世界の扉だ。

 

 

 自粛生活。自粛生活か。そうおもって振り返れば私はまったく自粛していない。むしろ積極と言ってもいい。家にいながらコロナ以前よりもたくさんの映画をみて、おいしいものを取り寄せ、ゆっくりお風呂に入る。「自粛生活」と言う言葉を使うひとが具体的にどんなことをどれくらい控えているのかはわからないけれど、そういう言葉にひっぱられてグレーな気分になるのではなくて、もうすこし冷静になって自分の身の回りをみつめるべきだ。

 

 そういう視点でみると私の生活はちっとも自粛なんかじゃないし、この日々にもたのしいことはいっぱいある。自らの意思ではなく「自粛」を余儀なくされているひとたちのために、私ができることもある。いくつかでも。でもそれは一緒に不幸になることではなくて、私が幸せになることでするものなのだ。もっとこの日々を幸せに、もっと積極生活を。そうやって、一緒に幸せになりたいよ。