モリノスノザジ

 エッセイを書いています

みんな私がかわいい?

 なんだかんだ欠点もある私だけれど、基本的にはかわいい生き物だと思っている。かわいい。散歩中にどこからか香るにおいにふと気がつくみたいに、その感覚は日常生活のふとした瞬間をかすめていく。それは、私が何かに成功したときではなく、清潔にめかしこんでいるときでもなく、誰かにやさしくできたときでもない。いつだって鏡のなかの自分と目が合うのを避ける程度に、見た目にはコンプレックスがある。それでもかわいい。みじめでもまじめでもダサくても、私はいつだってかわいい。

 

 いつだってコンプレックスにさいなまれてきた。未来からふりかえれば、今だってそうなのかもしれない。他人と比べて自分はなんて醜く、卑屈で、ずるい生き物だろう。けれど、長く生きていればそんな自分でもなんとなくいとしく思えてくる。30年以上も連れ添っているのだ。夫婦なら真珠ものだ。ダメなところもあるけれど、なんとなくキライになれないのよね、というのか。

 

 もしかしたらこれは単なる自己肯定に過ぎないのかもしれない。他人と比べて足りない部分をあげつらってみじめに苦しく生きるより、諦めて自分を認めたほうがいい。「自分を認める」なんて言うけど、要するにこれ以上の人間的成長を諦めるってことでもある。足りないところもあるけどそんな自分を認める、なんていうのは、向上を諦めるためのきれいな言い訳に過ぎないのかもしれない。

 

 若者は悩むものなのかもしれない。それがどんなことであろうと、くだらない悩みごとであろうと。20代を終えてからはそうやってちまちま自分をいじめるだけの悩み方をいつの間にかしなくなって、そうやって、やっと自分がかわいくみえるようになってきた。年齢のせいかもしれない。

 あるいは、社会に出ていろんな他人とふれあってきたためかもしれない。厳しいはずの社会でも、そのなかに飛び込んでみると意外とみんな人間である。バリバリに仕事をこなす先輩も、中学生の子どもを持つ親も、みんなどこかしら欠点がある。要するに、私が比べていた「他人」って意外とそういうものなのだ。まあ、たまたまそういう環境にいるだけかもしれないけれど、それで自分を大事にできるようになるならそう思っておけばいい。そもそも、自分を肯定することのいったい何が悪だったのだろう?

 

 無条件で自分の味方になれるのは自分しかいない。だったら、せめて自分が自分の味方になってやらないと。

 でも、その「無条件に自分の味方になれる」っていうのはいったいなんなんだろう?と考えると、それはもしかしたら人間、というより生き物としての本能みたいなものかもしれない。すべての生き物が自分自身の価値を低くみて、絶望しながら生きるとしたら、たぶん世の中はめちゃくちゃだ。あちこちでたくさんの生き物が死ぬ。自殺もあるだろうし、自暴自棄になってケンカをしたり、事故したりということもあるだろう。だから生き物には無条件に自分自身を大切にする本能が備わっている。この私が自分のことを「かわいい」と思えるくらいに。そして、社会の秩序もまた、その「自分かわいさ」に支えられている。

 

 そんなに強力に見える「自分かわいさ」だけれど、例外もある。「わが子かわいさ」だ。子どものために犠牲になる親の物語は、あらゆるところで繰り返し語られてきた。私には子どもがいない。だから、自分よりも子どもが大事、というのがどういう感覚なのかわからない。子どもができたらみんなそうなるのか。そういうふうに変わるのか。

 

 一方で、子どもより自分を優先するどころか、積極的に子どもを虐待する親もいる。その分かれ目はいったいなんなのだろう。自分の命、あるいは自分の感じる楽しさや苦しみと、子どもの命、子どもの楽しさ・苦しみとを天秤にかけて、そのどちらかが重いのかって、私にはよくわからない。もちろん、子どもを痛めつけて快楽を得るなんて論外だけれど、極端な話、自分と子どもの命を比べたときに、私は子どもの方を選べる人間だろうか?

 私には私の痛みや私のうれしさしか感じることができないから、自分という生き物は何よりも優先すべきだと思うのだけれど、その考えが子どもにも適用できるのかはわからない。そして「わが子かわいさ」の親も「自分かわいさ」の親も、たぶん、そういうことをじっくり考えた末での行動ではない。その場面がきたとき、急にスイッチがどちらかに倒れるのだ。自分より子どもを優先するのか、あくまでも自分が大事なのか。

 

 私にいつか子どもができて、「その場面」がきたら、思い知るのだろう。自分は子どもを持ってもあくまでも「自分かわいさ」なのか、それとも「わが子かわいさ」なのか。スイッチが入るみたいにパチッと、新しい自分がそこに現われる。その自分と出会ってしまうのは、ちょっと怖いような感じがして、でも少しだけ楽しみなような気もする。

 

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 ゲリラお題企画の参加者を募集しています。詳しくは↓の記事をご覧ください。

 たくさんの方が参加してくださるとうれしいです。締め切りは9月11日(金)です。

第一期ゲリラブ隊志願者募集(~9/11)

 ブログゲリラ活動の参加者を募集します。

 平たく言えば、お題企画です。賛同してくださる皆さんで、同じお題について記事を書きましょう。

 ただし、お題の内容や投稿日時はあらかじめ公表しません。参加希望者の方にのみ事前にお知らせしますので、参加を希望される方は森へご連絡ください。

 

ゲリラブの楽しみかたその1~観戦する~

 第一期ゲリラブ隊は、本日から一か月以内にゲリラを遂行します。活動の日時、内容については事前に公開しません。様々なブログをめぐっていただき、ぜひゲリラが遂行される瞬間を目に焼き付けてください。

 また、活動遂行後には本ブログにて活動報告を行う予定です。

 

ゲリラブの楽しみかたその2~参加する~

 第一期ゲリラブ隊に志願される方は、以下の方法により森まで連絡してください。締め切りは9/11(金)23:59です。投稿日時やお題などの指令について、順次返信いたします。指令を受け取った方は、指定日時に合わせて記事を予約投稿してください。

 

〇 注意点 〇

 ・ 指令内容を事前に他に漏らさないこと。

 ・ ご自身がゲリラブ隊員であることを事前に口外しないこと。

 ・ 記事は1記事のみ、500文字以上とすること。

 

〇 連絡先 〇

 ・ Twitter:@MORI__SあてにDMを送ってください(※フォロワーでなくても可)

 

〇 記載内容 〇

 ・第一期ゲリラブ隊志願者であること

 ・お名前(ハンドルネーム)

 ・ブログURL

 ・書きたいお題(あれば)

 ・ 返信先メールアドレス(メールでのお申込みの場合)

 

ついでにお願い

  参加の有無にかかわらず、本企画についてご紹介いただけると大変うれしいです。たくさんの方が、そして参加してくださるとは想像もつかないような方に参加していただけることで面白い企画になると考えています。(私が)知らない方のご参加も大歓迎です!

 

 なお、参加希望のメールをいただいた場合でも、お題の内容をみて(無理だなー)と感じた場合は無理に参加しなくても大丈夫です。辞退の連絡も不要です。

 どなたからも連絡を頂けなかった場合、森が単独でゲリラお題に挑戦することになります。つまり、通常運転です。そのときはぜひ笑ってください。

人生のおやつ

 髪を切るのはひと月半ぶりだ。久々にヘッドスパもお願いして、たっぷり3時間も美容室の鏡の前にいた。美容室の鏡はまるで魔法の鏡だ。最初に案内されてその前に座ると、そこにはボサボサで形のくずれたみすぼらしい私が映る。おかしいな?鏡なら朝家を出る前にも見たのだ。そのとき映っていたのはこんなみっともない自分じゃなかったはずなのに。と思う。到着したときの美容室の鏡は、手入れされていない自分の頭を普段よりひどいものに見せる。

 美容室の鏡はまるで魔法の鏡だ。シャンプーされ、カットされていくにつれて、鏡の前に座ったばかりのときとは見違えるようになっていく。髪がぴかぴかして、どういうわけかこころもち顔色もさっきよりいいように見える。目もきらきらしている。それにはもちろん担当の美容師さんの腕もあるのだけれど、美容室の鏡にはまるで魔法がかかっているみたいに、施術後の私をぴかぴかにする。今日も私は店に入る前よりふたまわりほど凛と、美少年みたいに仕上げてもらってから、美容室の鏡を後にした。

 

 担当の美容師さんは店長で、その店でも一番歴の長い、いわゆるカリスマ美容師だ。私の頭髪の手柄はすべて彼のものである。店長はカリスマであるがゆえに、複数の客を同時に接客することが多かった。よくあることだ。上手に予約内容を調整して、こっちの客にヘアカラーの薬剤をしみこませている間に、そっちの客の髪をカットし、もう一人の客はアシスタントが代理でシャンプーをしている、という具合に。

 

 「多かった」というのは、ここのところはそうじゃないこともあるからだ。鏡の前に座ってどんな髪型にしたいか話をして、シャンプーも、ドライも、ヘッドスパも、全部担当の美容師さんがやってくれる。そういえばここ何回かはアシスタントの若い美容師さんをあまり見かけていないような気もする。自粛期間の影響で、大幅に客が減ったらしい。そういえば、店内が少し寂しい。5月中はほんとうに客が全然来なかったらしく、「夜逃げしようと思いましたよ」なんて、笑っていた。けど、マスクの上の目は笑っていなかった。

 

 個人的に、髪は伸びれば切らなければならないし、外出自粛が呼びかけられているからといって簡単にセルフに切り替えられるようなものでもないと思っている。だから、美容院で客が激減したという話を聞いて驚いた。

 学校が休みになったり、リモートワークになって会社に出勤しなくなったりで、以前と同じような頻度で髪を切る必要がなくなった人もいるのかもしれない。あるいは、以前は「必要があって」髪を切る以外のリフレッシュの手段として美容院を利用していた客が減ったということなのかもしれない。それから、結婚式や入学式が開かれなくなって、着付けやヘアセットの機会が少なくなったとか。

 それでも、個人的には美容院はそう簡単に自粛できるようなものでもない。髪は切らなければならないし、こうしてときどき頭をもんでもらったりするのも気分転換になる。だからこそ、自粛ということで美容院を諦めてしまう人がたくさんいるということに驚いたのだった。

 

 美容院だけじゃない。家にいる時間が長くなって、スーパーとか、ドラッグストアのような生活必需品を扱う店で売り上げが伸びているのとは反対に、いうなれば、必ずしも生活には必要のない業種が苦しんでいるという。外食のお店とか、文化関係とか、観光業とか。いずれも、食べて寝るという人間の最低限の生活には必ずしも必要はないものだ。食事なら家で食べれるし、コンサートや演劇を観なくても生きていける。旅行も今は後回し。まるで、三食きちんと食べていれば必ずしも食べる必要はない、人生のなかのおやつみたいだ。そうやって「今は後回し」にするもののなかに、ある人の場合は美容院も含まれているということだろう。

 

 私は自粛生活で何を後回しにしてきただろう。そう考えると、そこまで我慢はしていないような気もしてくる。観劇や旅行はできなくなったけれど、家のなかから一歩も出なくたってそこそこ遊べる人間だ。こうやってブログを書いたり、ゲームをしたり、本を読んだり、歌を詠んだり。どれも一様におやつだけれど、家にいても食べられるおやつってことで我慢しなくて済んだ。自粛期間中もそれほどストレスを感じずに過ごせたのは、おやつを我慢せずに生活できたからかもしれない。

 

 そういえば、実際に食べる「おやつ」のことで言うと、2・3日前に食べるものを見直した。戸棚にいつもポテトチップスやチョコレートの買い置きがあったのをあらため、小腹が空いたときにはミックスナッツを食べるようにしている。ここのところマスクをつけっぱなしのせいか、肌が荒れているからだ。油分は肌によくない。ということで、大好きなポテチをあきらめて、泣く泣くナッツを食べている。

 正直なところ、ポテチが食べたくて仕方がない。今日は3回くらいポテチが食べたくなって、そのたびにぐっとこらえてナッツを噛んだ。このナッツというのがまた、塩っけすらない素煎りのナッツで(食塩も健康によくない)、あのしょっぱいポテチの代替品にはなりようもない。…と思っているのに、ナッツを食べ始めたらそれはそれで止まらなくなる。ナッツも意外とおいしい。

 

 「おやつ」は無駄なもの、必要のないもの、大人は我慢しなくちゃいけないもの、ダイエットの天敵、なんて言う人もいるかもしれないけれど、そんなことはない。おやつで気持ちが癒されたり、リラックスすることだってある。美容院でヘッドスパをしてもらうとか、コンサートに行くというような、食べて寝るだけの最低限の生活からははみ出るような楽しみも同じ。必ずしも必要ないなんて言っても、私にとっては食事と同じくらい大切なものだ。

 

 いつか、自由に外へ出かけて、自由に好きなことを楽しめる日が来るのが楽しみだな。当たり前に好きなことができたあの頃と違って、今の私は今はできなったおやつたちのおいしさをあの頃以上に知っていると言ってもいいかもしれない。もちろん、コロナだからって全部が全部諦めなくたっていいと思う。好きなことをするのは大事なことだ。ただ、今はいつもより気を付けなければならないことが多いというだけで。

 それに、たとえ今はそれを我慢しなければならないとしても、世界にはほかにもいろいろなおやつがある。家で楽しめることもたくさんある。これまで食べたことのなかったおやつを試してみたい。おいしいものが人生に増えたら、きっと今まで以上に楽しくなる。

 

今日もゆかいな淳さんから

 日本がイタリアだったら、毎日スられてんだろうなーと思いつつ階段をのぼる。駅のホームから改札へ上がる狭い階段は、スーツの黒集りで濁流だ。そんななかに、ぱっくりと口のあいた鞄をぶら下げている。わざわざ口を閉めるのがめんどうなだけで、特に理由はない。これがイタリアだったら、とっくに鞄のなかの財布がスられちゃってんだろうなーなんて、イタリアをスリが横行する国というイメージで染めながら、でもよかったと思う。ここはイタリアじゃなくて日本だから。

 

 そうやって無防備に持ち運んでも財布がなくならないのが日本のよいところ…と思いきや、会社に着いて鞄を開けると財布がない。上着にもズボンのポケットにもない。よもや、と、あわてて交番に駆け込む必要も、しかし、ない。冷静に一日の務めを終えた私が家に帰ると、財布は今のテーブルの上に鎮座していた。

 

 よくあることだ。土日にちょっと出かけたりして、そのときに出勤用の鞄から財布を取り出す。それを月曜の朝までに鞄に戻すのを忘れるものだから、そのまま忘れて出勤してしまうのだ。とはいえ、財布を家に忘れて困ることはない。弁当も飲み物も家から持っていくし、電車は定期があれば乗れる。IC定期券に残高があればコンビニで買い物もできるし、特別な予定がなければ財布がなくても最低限の用は済む。鍵をかけた家のなかにある分、財布としては安全とも言える。

 

 それでも財布を忘れるとへこむ。なんだかすごく間抜けなことをしているなあという気分になるし、まあ、そういう間抜けな気分で一日を過ごすのもそんなに悪くはないのだけれど。財布を忘れて、愉快な淳さんである。

 その点、サザエさんは強いな。と思う。家に財布を忘れて街に出たサザエさんは、みんなから笑われてしまう。あろうことか、子犬にも笑われている。な、なんておそろしい世界。財布を忘れたことがみんなに知られていて、それをこぞって笑われる。…けれど、その次へ進むとどうやら違うみたいだ。「ルルルルルル今日もいい天気」なんてすかっとして、なんだかいい気分になる。嘲笑するように見えた「みんな」も「子犬」もあたたかく笑っていて、気がついたらとてもホンワカした空気に包まれていた。

 

 実際のところ、他人の笑顔を嘲笑と受け取るのも、やさしいほほえみと受け取るのも、すべて自分次第だ。サザエさんのほんとうに強いところは、たとえ失敗してもあらゆる失敗をコメディに変えて、まわりの雰囲気をホンワカしたものに変えてしまうところだと思う。

 

 暑いわ不安だわマスクはうっとうしいわでピリピリしているのか、ここのところ仕事をしていてもいつもよりクレームがたくさん来る。それも、言ってもどうにもならないようなしょうもないクレームばかりだ。みんなイラついてるんだと思う。わかる。私もイラついている。こんな状況でも解消されない満員電車とか、マスクとか、肌荒れとか、予定していた旅行がパーになって今後も当面はどこにも出かけられないこととか。でも、こんな状況をなんとかコメディに変えていければと思っている。

 

 わからないことや理解できないこと、どうにもできないことをコメディに変えるのも、わからない人や理解できない人、どうにもできない人にどうしても向けてしまう一方的な怒りを和らげるのも、想像力だ。もしかしたらこういう事情があるのかもしれない、とか、こんな理由があったらおもしろいな、とか。あまりにも他人に対する想像力に欠けている人、というのが世の中にはたまにいて、偶然かもしれないけれど特にここのところよく見る。そういうのは嫌だなあと思うし、できることならできるだけたのしく生きていければいいと思う。今日もゆかいに、コメディに。

 

男と女と友情と

 だいたいのところ飲み会はルーティーンが決まっていて、一次会では先生も呼べるような最低限に小ぎれいな店。二次会は魚民で、その次は暗い路地裏のせっまいバー。それでも飲み足りないときは後輩がバイトしてるタイ料理店。そうやって無駄に店を変えては、どうでもいい話ばかりした。学生の頃。

 「森はさ、どう思う?男と女の間に友情って成立すると思う?」なんてたしかにいつだったか聞かれたことがあって、そのときはなんて答えただろう。私は無駄にかしこぶってずるいところがあるから、もしかしたら「うーん…、それは難しい問題だね」なんて言ってごまかしたりしたのかもしれない。でも、それはたしかに今の私にも難しい問題だ。なんてったって私には、「男」も「女」も「友情」も、それがなんだかわからない。

 

 性的マイノリティ、なんてごっつい言い方しなくったって、もともとみんないろいろだ。それは、どんな相手に性欲を感じるか、どんな相手を好きになるか、どんな身体を持っているか、ということだけではなくて、たとえばどんな言葉をつかってどんな装いを好むか、とか、いろいろな視点がある。そういういろんな軸をひとつひとつ考えてみたら、たぶんだけど、すべての面が典型的に「男」とか「女」とか呼ばれる性の特徴に振れ切っているわけではないと気がつく人だって少なくはないはずだ。それなら、いったい「男」とか「女」ってなんのことだろう?

 

 それに「友情」っていったいなんだろう?「男と女の間に友情って成立すると思う?」というとき、あたかも男と男や女と女の間になら友情が成立するかのように言うけれど、本当だろうか?友情じゃなかったら性欲なのだろうか?恋人とのセックスを望まない人がいたとして、彼らは永遠に恋人同士にはなれないのだろうか?あるいは、友情は実のところセックスを伴わないだけで根本のところで性欲に根差した関係性なのではないのか?

 

 …なんてことで、正直に言って私にはわからない。「男」も「女」も「友情」も。そしてその男とやらと女とやらとの間に友情とやらというものが成立するのかどうかも。だから、男と女の間に友情は成立するのか?と尋ねられたらまず私は問わなければならない。まずはその、男とか女とか友情ってやつがなんのことなんだか教えてくれ。

 

 ――なんて言ったら、こいつ、つまらないやつだって思われるんだろうな。ぐだぐだになだれこんだ深夜のバーで、まじめに友情の話をしたくてそんな問いを投げかけてくるとは思えない。相手の真意はきっと別にあるはずだ。

 大人になるまで気づかずにいたけれど、コミュニケーションとは自分の意見を言うことではない。相手が欲しいものを返すことだ。「新しい髪型、どう思う?」と聞かれたらすかさず褒めること。愚痴をこぼされたら、話を聞いて慰めてあげること。「連休なにするの?」と聞かれて自分の計画を長々と話すのは100点ではない。そのとき相手も同じことを聞いてもらいたいと考えている。つまりそう。何かの問いを発するとき、相手は逆に自分の考えを話したいと思っている。または、自分の話をしたいと考えているのだ。

 

 「男と女の間に友情って成立すると思う?」と問う彼/彼女は、男女間の友情ということに関して考えざるを得ない何事かを経験したに違いない。それは男女間の友情を疑わせるようななにか、もしくは、異性との間に芽生えた友情に対する驚きのどちらかである。

 

【ケース1】

 彼女には長年付き合いのある男友達がいる。幼いころから同じ公園で遊び、入学式の日には家の前で一緒に写真を撮り、同じ市民ホールで成人式を迎え、互いの親や兄弟とも仲が良く、今でも犬の散歩中に出会えばしばらく会話をするような関係だ。彼女が風邪をひいたときには彼が彼女を見舞いに来るし、彼が初めてできた恋人に振られたときには彼女が慰めてやった。彼女はその男友達から、ある日突然恋心を伝えられる。ずっと好きだったんだ、付き合ってほしい。彼女は困惑する。彼のことは友達だと思っていたのに。男と女の間の友情なんて、しょせん偽りの関係なの?

 

【ケース2】

 彼は幼いころから女性によくモテた。彼の家はずいぶんな資産家で、彼自身もやがて家業を継ぐことになっていた。勉強も運動もたいしてできなかったけど、女性たちは彼のそんなところをかえってほめそやした。彼がわがままを言っても、嘘をついても、彼の周りの女性たちは彼の見方をする。そうして彼はやがて、女性を信じることが難しくなった。みんな自分の背後にある金ばかりをみていて、誰も本当の自分自身をみてくれはしないと感じた。そんな彼は、ある日、一人の女性と出会う。彼女は、彼の家の莫大な資産のことを知っても、他の女性のように態度を変えはしなかった。絶対に彼におごらせようとはしないし、彼が家族や恋人について相談すると親身に話を聞いて応援してくれた。彼は感動した。男と女の間にも、友情が成立するなんて…!

 

【ケース3】

 彼女は今ある相手に片思いをしている。彼は彼女と同じ会社に勤める3つ年上の先輩で、入社以来ことあるごとに食事に誘ってくれたり、休みの日にはほかの同僚たちとも一緒にキャンプに行ったりもする。彼とは登山という共通の趣味もあり、二人で登山に出掛けたことも何度かあった。難関の山を登り遂げたときにはハイタッチもしたが、行き帰りの車のなかで助手席に座る彼女の胸はいつも大きく高鳴っていた。こんなにも私に目をかけてくれるのだから、少しくらい私に好意を持ってくれていてもおかしくはないのではないだろうか?それとも、もしかして彼は私のことを単なる女友達だと思っている?いったい、どっちなの?どう思ているの?

 

【ケース4】

 その相手は今目の前にいる。自分のことをどう思っているかなんてストレートな聞き方はできないけれど、こう聞いてみたらいったいなんて答えるだろう?男と女の間に、友情って成立すると思う?

 

 などなどと。私に限ってケース4のようなことが起こるわけはないし、何か悩みでもあって話を聞いてほしいというのが関の山だろう。

 

 友達だと思ってた人がそうじゃなかったとか、何でもないと思ってた人が実は友達だったとか、そんなのよくある話だ。それは男女間に限らず、男男間でも女女間でも、夫婦でも、親子でもある。今ある関係がずっと続くとは限らない。それでも、今友達だと思える相手がいるなら、それをあえて疑ったり否定したりする必要はないんじゃないか。それが異性だから、いつかは恋愛感情に変わってしまうかもしれないから、これは偽物の関係だなんて、そんなこと思わなくてもいいんじゃないか。

 だけど私たちはそういうどうでもいい目の前のことでぐだぐだと悩みたがる生き物だ。悩むこと自体を楽しんでいる側面もあるし、偉そうなことを言っておいて私だっていつも人間関係のことでうだうだ悩んでいる一人でもある。うーん、と情けないうなり声をあげてから、とりあえず私は答えておく。

 

「それは難しい問題だね」。

 

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ですね。note(https://www.desunenote.com)さんのリライト企画に参加させていただきました。

普段あまり書かない恋愛(?)系を。Sさん、楽しい企画をありがとうございました。

 

『第2のRira』⑦(企画記事&元記事はこちら↓)

www.desunenote.com