モリノスノザジ

 エッセイを書いています

美容師に握られている

 美容室はおもしろい。めぐりにはいろいろな髪型の客たちが、鏡に向かって座っている。それもふつうの意味でいうところの「髪型」とはちょっと違う。なん十個もありそうなカーラーを巻かれて頭から壺のような機械を被っている人や、べとべとの薬剤をつけられたうえに髪の毛を銀紙で挟まれている人。濡れた髪を櫛でぺっとりと撫でつけられて、そのままの状態で待たされている人。どれも街中ではおよそ見かけることのない髪型ではあるけれど、恥ずかしがっている人なんて誰もいない。鏡の前で(だから、自分がどんな髪型をしているかわかるはずだ)ゆっくりと雑誌のページをめくったりしてすましている。美容室は誰かの「変身中」が見られる特別な場所だ。

 

 「変身中」の姿を見ることは楽しいし、すこしだけ安心する。普段はばっちり髪型を決めているおしゃれな人でも、そのパーマやヘアカラーのために、こんなに面白い姿になっている瞬間があるのだと思うと、いつもは遠巻きに眺めているだけの彼女らが少しだけ身近に感じられるような気がする。

 

 というのも、私はいつも誰かの「変身後」の姿しか見ていない。毎日化粧をしている女性は化粧後の姿しか見たことがないし、ひげのない男性の顎はいつだってツルツルだ。そして私が彼らの「変身前」を見たことがないのと同じように、「変身中」の姿もまたほとんど見たことがない。女性がメイクをしたりムダ毛を処理しているところ。男性がひげを剃るところ。日常生活では、そうした場面を見ることはない。だからこそ、美容院で「変身中」を見るのは楽しいのだ。

 

 けれど、では自分の「変身中」が見られるのはどうだろうか?美容室の中でカーラーを巻かれているのはいい。けれど、そのままの状態で外に放り出されたらと想像するとおそろしくてたまらない。

 ときどき、今この瞬間に、なんらかの理由で、美容師さんのやる気がゼロになったらどうしようと考える。さっきまであんなに真剣な目をしてハサミをふるっていたのに、どういうわけか急にやる気を失ってしまう。閉じた目の上に布を乗せられてシャンプーをされている最中に、なんだかさっきから手が止まっているなと思ったら、いつの間にか誰もいなくなっている。髪の毛にカーラーを巻かれて機械で頭をあたためられたまま、一向に誰も外しに来てくれない。

 

 そうなったら、終わりだ。私はこの、中途半端に濡れていたり、重たいほどにカーラーを巻かれた頭のままで外に出なければならない。いっそのこと髪が切られていなくて、パーマもかかる前の、「変身前」だったとしたら何の問題もなかったのに。

 幸いにして、これまでに美容師さんが突如としてやる気を失うといったことは起きていない。けれど私はわかっている。私がちゃんと「変身後」の姿になって扉の外に出られるかどうかは、髪の毛といっしょに美容師さんの手に握られていて、そうなったら私は「変身中」のどうしようもない姿のまま外へ出ていかなければならないってことを。

 

 この話を人にしたら「え?」と言われた。彼は、シャンプーの途中で放置されたとしても、自分で髪を洗って乾かして外へ出るらしい。「それがなんで問題なの?」だそうだ。…うーん、そういうものか。

 

最適と特別

 現状に不満があるってわけじゃないんだけど、なんかときどきこのままでいいのかなって思っちゃうときがあるんだよね。私、他を知らないでしょ?このまま何年も暮らしていって、今とは違う人生っていうのも知らずに生きていくのが、将来的にいいのかなって。いや、別に不満があるってわけじゃないよ。今以上の条件を求めたらそれこそ選択肢がなくなりそうだしさ。だけど、いつかは離れなくちゃいけないときもくるんだと思う。ああいや、この街からね。

 

 これまでに3回の引っ越しを経験して、社会人になってからはずっと同じ街に住んでいる。北海道ではこの街しか知らない。このあたり一帯の地域にゆかりもなければ知り合いもなかった私は、住むところを決めるのにとことん合理的な選び方をした。市内での交通手段。空港へのアクセスのしやすさ。駅近の大型スーパーマーケット。ほどよく街らしく、それでいて緑が見えて鳥の声が聞こえる程度の自然。

 それに加えて、暮らし始めてみれば行きつけの定食屋ができる。私のカルテを持ってる歯医者がある。近くの菓子店でポイントカードをつくる。手ごろな値段で花を売る花屋を見つける。この街には私が望む限りにおいて最適の条件を備えている。

 

 ただ、なんとなく不安になることもある。たとえばいつか私が結婚したとして、そのときは結婚相手と一緒に暮らす家を探さなければならない。そのとき私は、この街しかしらないからと言って、この街で暮らし続けることを求めるのだろうか。あるいは私たちの間に子どもが生まれて、子育てのために生活環境を変えなければならないときがくるかもしれない。そのとき私は、唯一知っているこの街を捨てられるだろうか。自分で選んだこととはいえ、肉親も友達も近くにいないこの場所で、一番長く一緒にいるのはこの「街」なのである。

 これだけ生活に便利な条件がそろっていて、理由もないならほかの街に引っ越す必要はないよなあ、と思う。ましてや、今よりも利便性を下げてまで引っ越しする必要はないよなあ。

 

 がやがやとうるさいラジオの音にはっとして、自分が近所のラーメン屋にいたことを思い出した。壁に飾られた雑誌の切り抜きは陽で黄ばみ、テレビの上に置かれたソフビ人形は埃が溝に溜まってギトギトと光っている。店内では、点けっぱなしのテレビとラジオとが交互に主張をしあっていて、それなのにふしぎとうるさくはない。夫婦が経営するこの店は、昔ながらのラーメン屋、といった感じで、ラーメン屋の無駄に元気のいいちょっと圧迫されるような感じもなく、実に居心地のいい場所である。

 注文していたラーメンが届く。とんこつベースの味噌ラーメン。すこし濁ったスープに太めの縮れ麺が絡みつく。ごま油で炒めた玉ねぎとひき肉からいい匂いがする。普段はそこまでラーメンを食べているわけではないけれど、どういうわけかこの店はときどき来たくなる。

 

 もうこの街は、「便利なだけの街」じゃないんだ。こうやってラーメン好きでもないのに通ってしまうラーメン屋があって、見かければつい中を覗いてしまう花屋があって。この街は私のなかでどんどん特別になっていって、もしかしたら私はそれが怖いのかもしれない。いつかはこの街を離れることになるはずなのに、通勤に便利だとか買い物が楽だとか、そういったほかの街でも代わりになれるような条件とは別の部分でこの街を好きになっていく。

 

 ただ、「好きになるのが怖いから離れる」だなんて間抜けな選択肢を、大人になった私は選ばない。いつかは別れると分かっていても今は一緒にいるんだ。

 

(彼女)の消息

 「ギャップ」と言うのはおおむね好ましいものと考えられている。ハンサムなのにおっちょこちょいだとか、いつも隙のない同僚が飲み会では羽目を外してしまうだとか、「おっちょこちょい」「羽目が外れる」だけに目を向ければ欠点に見えるようなことも、むしろチャームポイントになるのではないか。

 

 

 少し長めの休みには、いつもより少しだけ気合を入れて掃除をすることにしている。できれば、いつもより余裕のあるうちに衣替えの準備も済ませてしまいたいところだけれど、さすがに冬服はまだ早い。洗濯したシーツを干したら、まずは洗面所から順に掃除機をかけていく。

 と、ふと妙な感じがした。なにが妙かというと、なんとなく臭う。可燃ごみの日に捨てそこなった生ごみがやがて発するみたいな、生臭くて、不潔な感じのするにおいだ。しかし、捨てそこなった生ごみなどわが家にはない。そのうえここは洗面所なのだし、食品由来の生ごみのにおいがするはずもない。洗濯に使用した後生乾きの状態で片付けた洗濯ネットかと考えたが、どうやら違うようだ。頭をひねりながら再び掃除機のスイッチをONにする。やはり臭う。

 その妙な臭いは掃除機から発せられていた。吸い込んだごみが一時的に溜まる、スティッククリーナーのその内部が、いままでに見たことのないような汚れ方をしている。ごみ受け部分は透明なプラスチック製なので中まで見える。よくみると底には茶色っぽくてねばねばしていそうな塊がある。嫌な予感を覚えつつ、スティッククリーナーを分解して中を覗き込むと、茶色っぽい塊に小さな白い蛆虫がうご※※※※※(自主規制)。

 臭いの発生源と思われる茶色の塊は、やはり強烈なにおいを放っていた。身の毛もよだつ光景に思わず遠のいていきそうになる意識を必死につなぎとめて、冷静になろうと努める。しかし、一国の猶予も許されない。先週は思いがけず遭遇した虫を前に熟考していたがために、あいつを逃がしてしまったのだ。今回も同じ。怯えて触れずにいる間にさっきの虫たちが成虫になって飛び出してくるかもしれない。身体に触れられたらアウトだ。きっと私は正気を保っていられなくなる。

 「それ」が、茶色い塊ごと、流水で簡単に洗浄できたことが幸いだった。千切れた塊が飛び散ったり跳ねたりするたびに叫び声をあげながら、私は大急ぎでその仕事をやり遂げ、奴らは茶色の塊ごとビニール袋に詰めてごみ箱にぶちこんでやった。

 

 しかし、いったいどうして掃除機の中に幼虫が生まれたりするのだろう?

 心当たりがあるとすれば、先週の戦いのこと(真昼間の怪談 - モリノスノザジ

)だ。あのとき私は、なんとかして洗面所に現われた黒い虫を吸い取ってやろうと、そこらじゅうに掃除機をかけた。そして掃除機は、戦いの最中で噴出した洗濯機の水も吸った。多少の水を吸うことくらいこれまでもあったことだから、おそらく原因は水ではなくて虫の方だろう。私は黒い虫を逃がしたものと思い込んでいたが、実はしっかりと仕留めていたのだ。掃除機で。

 だが、掃除機の中にいたのはあのときの黒い虫ではなく、幼虫である。おそらく黒い虫が生んだのだろう。掃除機のごみの中に虫が自然発生したという可能性もなくはないが、それではやはり無から有が発生することになってしまう。あの虫が掃除機のなかで卵を産んだと考えるほうが筋が通っている。…とすると、あの虫、雌だったのか。

 

 掃除機の中にあの黒い虫はいなかった。おそらくヤツは掃除機に吸われた後、その内部で卵を産み落として力尽きた。死骸はだんだんドロドロになり、埃やほかのごみとくっついてねばねばした塊になる。卵から生まれたヤツの子どもたちは、親の死骸でできたその茶色いドロドロをすすって、掃除機のなかで懸命に生きた。やがて成虫になってそこから出ていける日を夢見て――。

 そう考えると、おぞましかったあの黒い虫に母性のようなものを感じ、なくも、ない。掃除機の中に閉じ込められ、自らは力尽きようとも、子どもたちの生命をつなごうとしたのだ。これはギャップ―――それも、野良猫に優しくするヤンキーの好感度が上がるのと同じ構造のギャップである。これからはもう虫も怖くない。ギャップ萌え!アイラブ虫!プリーズギブミーMORE虫!

 

 

 なんてなるわけない。ギャップがあろうとなかろうと、NO MORE 虫、もうこりごりです。

 

真昼間の怪談

 怪談と言えば幽霊だけど、幽霊の怖さは「いるのかいないのかわからない怖さ」だと思う。想像してみてほしい。夜中、暗い寝室で目を覚ますとなにやらどこかからコソコソと物音がする。あるいは、トイレに立って廊下を歩いていると、自分の顔の真後ろに何かがいるような気配がある。その正体を確かめようと周りに目を凝らしたり、息を詰めて物音に耳を凝らしても、原因は一向にわからない。

 たとえばそれが、猫が水を飲もうとして皿を倒した音だとか、廊下の壁に飾られた面だとか、正体がわかってしまえばなんてことはない。けれど、正体がわからないのは怖い。なにかがいるような気がするけどなにもいない。…ように見えて、でもやっぱりなにかがいるような気がしてならない。そういう状況が怖い。 

 幽霊が座敷の隅にはっきりと見えたなら、そのときの怖さは、見えない幽霊に感じるのとはまた別種の怖さではないだろうか。たとえばその幽霊が口から血を流していてコワイとか、襲い掛かってくるからコワイとか。そういう怖さは怪談的な怖さではなくて、具体的な生き物に危害を加えられる恐ろしさである。

 

 

 あれはよく晴れた土曜日の朝のことだった。すこし遅い朝食を終えた私は、FMラジオを流しながら食器を洗っていた。きれいに洗いあがった食器を拭いて、食器棚にしまったら、ダイニングテーブルの椅子を部屋の隅に寄せて掃除機をかける。雨で汚れた窓枠を雑巾で軽く拭いて、トイレとキッチンのタオルを取り換える。

 いつもと同じ順番。いつもと同じ週末の掃除。そのはずだった。平穏なはずの週末の朝は、一瞬にして打ち砕かれた。

 

 

 戦慄の出来事は洗面所で起こった。整髪料に歯磨き粉、洗面台のあちこちにバラバラと置かれているボトル類を一か所に集め、表面を水拭きしていく。いつもどおり、蛇口レバーの裏をぬぐってから、歯ブラシ立てを持ち上げて陶器の洗面台を拭こうとしたとき。私は思わず「うわっ」と声を上げた。歯ブラシ立ての下には黒い虫がいたのだった。

 

 虫は体長1センチほど。周囲には虫と同じような色の、黒い粉のようなものが散らばっている。私は固まった。そして、固まったまましばし考えた。

 ―――歯ブラシ立ての下だと?明らかに「無」から「有」が発生している。「無からは何も生じない」と言ったのはギリシア哲学者パルメニデスであったが、虫だけはその例外である。コバエ然りこの名前がわからない黒い虫然り、虫だけは明らかに「無」から発生している。それにしたってこいつ、歯ブラシ立ての下の隙間のない場所にうっかり発生してしまったがために、発生したが最後、つぶれて粉々になってしまっているではないか。

 

 やれやれ、この死骸をどうやって片付けたものか。水で流してもどうせ手でつままなければいけないし、ティッシュ越しに手でつかむのも嫌すぎる。プリンの空き容器と厚紙やなんかをつかってうまいこと回収するか―――とゆっくり考えていた矢先、死んでいると思われた虫は突然動き始めた。私は再び「うわーっ」と叫び、そして今度こそそのまましばらく動けなかった。

 ようやく動きを取り戻した私は、虫が逃げていったと思われる隙間に向かって水を流してみたり、洗濯機を動かしては水栓が外れて水浸しになったりしてみたのだが、それ以来あの虫を見ることはなかった。洗濯機を動かして底の床まで水拭きしたというのに、そこにもいなかった―――のである。

 

 

 それ以来私は虫の恐怖に怯えている。視界に黒いものがチラッと映ると、それが刻み海苔であろうと鏡の汚れであろうとびくっと怯えてしまう。どうしてあのとき、虫が死んでいると思い込んでしまったのだろう。どうしてあのとき、確実に仕留めておかなかったのだろう。あのときしっかりと虫を排除してしまえば、こんな恐怖にさいなまれることはなかったのに。

 

 実際のところ、あの虫がまだわが家のなかにいるのかどうかはわからない。まあ虫の一匹や二匹住んでいてもおかしくはないのだけれど、あの虫が実際に私の目の前に姿を現したことで、すべてを変えてしまった。虫はあれ以来私の前に現われていないのに、常に私を不安にさせる。うがい用のコップを持ち上げたらその下に虫がいるんじゃないかとか、夜な夜な這い出てきては抜け落ちた私の髪を食み、歯磨き粉についた唾液を舐めているんじゃないかとか。そういう恐ろしい想像をかきたてる。もしかしたらもうあの虫はわが家にはいないのかもしれないのに。

 

 虫が今でもわが家にいるという証拠はない。私はただ一度、歯ブラシ立ての下に虫がいるのを発見しただけだ。いっそのこと再び目の前に現れてくれたら、今度こそちゃんと処分してほっとできるのかもしれない。だけど私がいつまでも虫に怯えていて怖くって、それは、虫が本当にいるのかいないのか、それがわからないからだ。

 

よわくなる、夏

 あ、秋になった。って感じる瞬間があって、それはたいてい風にあたっているときだ。気温が下がったわけでも、目に見えて日没が早くなったわけでもないのに、8月のあるとき、それはやってくる。いったいそれはなんなのだろう?あの風の正体。風速とか温度とか、そういうものであの「あ、秋になった」を説明することができるのだろうか。北海道はここのところ、去りゆく夏を惜しむみたいに暑さがぶり返した日々が続いているけれど、「あ、秋になった」の風はもうとっくに終わっていて、正味2週間の夏2019はあっという間に終わってしまったのだった。

 

 今年は「あ、秋になった」は盆前にはすでに始まっていた。時期としては若干早いのだけれど、北海道にしてはめずらしく熱帯夜が続いた7月下旬~8月上旬のことを考えれば、ずいぶんと長い夏であった。私は子どものころから暑さを我慢するのが得意で、好きでもあって、熱帯夜を扇風機もつけずに幾晩と過ごしても平気だった。暑いことよりも、ノートやら本やら髪の毛やら、身の回りのいろいろなものが風でなびくことや、冷房のつめたさが苦手で、そしてたぶん、我慢することをなんとなくいいことだと思っていた。

 

 クーラーのない北海道では、好きとキライとにかかわらず冷房なしの熱帯夜を乗り切ることを強いられる。そしてこれが、どういうわけだかこれがめっぽうしんどい。同じ熱帯夜とは言え、あのころ地元で経験していた熱帯夜よりは数段落ちるはずなのに、ひどく身体がだるいのだ。日ごとに疲労は蓄積して、8月に入るころには特にこれといった理由もないのにへろへろになっていた。「自分には体力がある」と過信することの恐ろしさ。寝ている間に熱中症で亡くなる高齢者のニュースが、画面の向こう側の出来事ではなくて、自分がいる場所と陸続きであることに気がついた夏だった。

 

今週のお題「夏を振り返る」