モリノスノザジ

 エッセイを書いています

文学フリマ札幌に参加します

 来る7/7(日)、さっぽろテレビ塔で行われる文学作品展示即売会「文学フリマ札幌」に参加します。出展ブースは「BUGS(お-03)」です。

 

▼短歌同人誌『BUGS4』

 短歌10首連作「シュガータウン」

 札幌文フリ記念のフリーペーパーも無料でお配りします(右)。

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▼森の単独フリーペーパー

 エッセイのフリーペーパーを上記ブースに置かせていただけることになりました。

 ペーパーは1種類、無料です。

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 白い背景に白いページで、なにがなんだかわからん状態になっています…。ホンモノはクラフト紙に印刷予定なので、手に取っていただける方にはこのサンプル画像とはちょっと違う印象を感じていただけるのではないかなと思います。

 エッセイの内容はふだんここで書いているのとたいして変わりませんが、つくる側としてはブログに文字を打ち込むのとはまったく違う種類のものをつくる感覚があって、非常に新鮮でした。イラストを挿入したり、フォントを使いわけてみたり、レイアウトの調整もブログにはない要素です。また、紙を折ってみたり裏面のデザインをああだこうだしてみたりと、インターネット上のブログとは一味違ったつくりになっています。

 

 今回フリーペーパーを作成するにあたって、2カ月ほど前からデザイン関連の入門書を読んだり、早起きして毎朝15分グラフィックソフトの練習をしたりといったことをつづけてきました。BUGSのフリーペーパーも私の方でつくらせていただきましたが、勉強期間が短く、また初心者がつくった割にはどちらも上出来だなーと満足しています。

  フリーペーパーの題材についても、つい2週間ほど前に決まるまでずっと考えていました。BUGSのブースに置いていただけるということもあって、普段ブログで書いているようなものをそのまま紙に乗っけるだけでいいんだろうか?文フリやイベントのある7/7にちなんだエッセイが書けないかな?などといろいろと悩みましたが、最終的にお菓子のミルキーに関するエッセイと、ミルキーの包み紙をイメージしたデザインで作成しています。期日が迫るなかでほかにいいアイデアがうかばなかったというのもありますが、甘いものというモチーフを短歌連作「シュガータウン」とリンクさせられたところは気に入っています。また「包む」をテーマにペーパーをデザインすることで、もともとやりたいと思っていた紙ならではの表現というものにすこしでも近づけたのかなと思っています。

 

 フリーペーパーの作成たのしかった!またやりたいです。それに、ペーパーの作成を通じて、紙だからできること・ブログだからできることとはなんなのか、もっと探ってみたい気持ちもあります。かならずしも「紙」に印刷しなくても、ブログ記事とはちがったレイアウトで書いてみるだけでいつもと違ったことができるかもしれません。そのときにはこのブログでもご報告できればいいなーと思っています。

 

 文フリはほかにももっともっとすばらしい作品が毎年出てますので、札幌近郊にお住いの方はぜひいらしてください~。入場無料です。

まずは「おねえちゃん」からはじめよ

 私は長子である。したがって、私には兄や姉がいない。いままで私がそのことに疑問を持つことはなかったし、兄や姉のいない人生を恨むこともなかった。兄や姉のいるだれかをうらやんだことすらない。それなのにどうしてだろう。満ち足りているとは言えずとも、いろいろなものに恵まれている私の人生。そのなかで、兄と姉の存在だけが決定的に欠けている。隙間から吹き込んでくる風の存在に気がついてしまったらもうおわりだ。兄と姉のいない空虚さは次第に私を満たしていく。はたして私は、兄も姉もいないままこの人生を終えていいだろうか?

 

 けれど兄や姉がほしいといってもいったいどうやって手に入れたらいいものだろう?兄や姉が「親を同じくする年長の男女」を指すものである以上、長子たる私が血のつながる兄(姉)を後天的に得ることは不可能である。ならば、いわゆる「義理の」兄・姉はどうだろうか?つまり、配偶者に兄または姉がいる場合、配偶者との結婚を通じて義兄・義姉をつくることができる。これならば後天的に兄(姉)をつくることができるのではないだろうか?

 しかし、義兄・義姉を手に入れることにも壁がある。結婚によって義兄・義姉を手に入れるには、兄や姉のいる異性を見つけなければならない。しかし、身近に出会える範囲の異性のうち、はたしてどれくらいの人に兄や姉がいるだろうか?第一子は必ず長子であり兄や姉を持たない。このため、兄や姉を持つためにはn人きょうだい(n≧2)の2人目以降である必要がある。日本が多産社会であればその条件に当てはまる異性も多かったであろうが、残念なことに現代の日本は深刻な少子化社会。運よく異性と巡り会えたとしても、その人に兄や姉がいる確率は決して高くはない。そもそも結婚に至るような異性と出会うのが一仕事の時代である。そのうえ相手の家族構成まで厳選するとなれば、結婚が遠のき本末転倒となりかねない。この方法も成功率は低そうだ。

 

 だがよく考えてみろ。これまで兄や姉のことを「手に入れる」だなんて、まるでモノみたいな扱いをしてきた。結婚相手にしても、義兄・義姉を手に入れるための道具のような口ぶりだ。しかしそうだろうか?結婚は兄(姉)を手に入れるためではなくて、心と心のつながりを社会から追認してもらうための儀式である。そして兄や姉は、単に血がつながっているとか定義上「兄」「姉」とされる存在のことを指すのではなくて、互いの関係性によって規定されるものなのではないだろうか?形式的な条件に着目して兄(姉)をさがすのはむしろ正しくなくて、相手の内面、あるいは自分との関係性に兄らしさ・姉らしさを見出すべきではないのだろうか?

 

 おにいちゃんやおねえちゃんがほしい、と言うとき、たいがいは単に兄や姉と呼ばれる存在がいることだけを望んでいるわけではないのだと思う。母親のいない子どもが「おかあさんがほしい」と言うとき、その子どもがほしがっているのは形式的な母親ではなくて、自分に愛をそそぎ、守ってくれる母親だ。そして、私がおにいちゃんやおねえちゃんがほしい、と言うとき、私がほしがっているのはいったい―――?

 

 じつは私にもおにいちゃんだと思う人がひとりだけいる。もちろん血はつながっていない。いつの間に彼が私のおにいちゃんになったのかはわからないけれど、いつの間にか私は彼のことをおにいちゃんだと思うようになっていた。彼のどこが「おにいちゃん」っぽいのかはわからない。実際には「おにいちゃん」ではないみたいだ。だから、もともと兄であるがゆえに兄らしい性格(といってもなんのことだかわからないが)をしており、それを私が感じ取ったというわけでもないようである。日ごろのふるまいを見ていても、ほかの人と比べて特別頼りになるとか、個人的な相談に乗ってくれるといったこともない。だけど彼はおにいちゃんなのだ。

 じゃあどうして彼がおにいちゃんなのか、という最初の疑問に立ち返ると、それはどうやら「あ、おにいちゃんかもしれない」という気づきだったのかもしれない。一度「おにいちゃん」だと思うと、私が彼にする接し方も、彼のふるまいに対する見方も変わってくる。おにいちゃん今日は髪型決まってんじゃんとか、あ、おにいちゃん手伝ってくれてるありがとうとか、そんなふうに毎日を過ごすうちに、だんだん親近感が沸いてくる。ほんとうにおにいちゃんのように思えてくる。

 

 つまり、だれかをおにいちゃんにするにはまず、相手を「おにいちゃん」と思うことだ。むしろ、ほとんどそれだけでいいのかもしれない。簡単なおにいちゃんのつくりかたで、そして、正攻法でかたちだけの義兄をつくるよりもずっと親しみのあるおにいちゃんをつくる方法だ。

 

 いまのところ私にはおねえちゃんと思える女性がいない。こんなおねえちゃんがいたらいいな、というお姉ちゃん像はあるけれど、理想は理想なだけに理想にぴったり合致するような女性にはなかなか出会えないのだ。でもまずは「おねえちゃん」と思うところから始めよう。さがしてもみつからないおねえちゃんなら、私が「私とあなた」を「私とおねえちゃん」に変えてやるのだ。

 

あたらしいことばを手に入れた

 色相環。っていうのか、いろいろな色がぐるっと輪になったあの図が苦手だ。正確に言えば、色相環があるところにつきものの色彩理論。色相に彩度に明度。色はとても感覚的なもののように思えるのに、色を語ることばは理屈っぽくて難しい。たとえば見る人の目を引く色の組み合わせだとか、美しい色の組み合わせについての説明文。さらっと読み流してもさっぱりわからないのは当然なのだが、じっくり読んでもやっぱりわからない。同じ文章を繰り返し読んで、なんだかわかったようなわからないようなつもりになったところで脳が終了する。そんなわけで、そういったややこしい理屈を想起させる色相環はなんだか苦手なのだ。

 

 だけれどそんな色彩理論も、根気よく取り組んで理解できるとなかなかにたのしい。どの色をどこで使うか、それにどの色とどの色を組み合わせるのがよいのか。それにはちゃんと理由がある。そして、それは「センス」みたいなあいまいなものではない。いいものの良さを、あるいはよくないものの悪さを、ちゃんとことばで説明することができる。それは思ったよりもたのしい。

 色彩理論だけじゃなくて、レイアウトデザインなんかもそうである。良いレイアウトには、それが良いレイアウトであるための理由がある。そして、良いレイアウトをつくるためのノウハウというものもある程度洗練されている。それがデザインのすべてというわけではなくて、ある程度レベルが高くなれば当然個々人のセンスのようなものが働く余地があるのかもしれない。けれどもっと初級のレベルに関して言えば、いくつかの基本的なルールを守れば素人でもまず失敗はしないような、そんなノウハウがある。そしてそれはつまり、いいものの良さを、あるいはよくないものの悪さをことばで説明できるということだ。

 

 そういった理論を知らなかったころの私は、ポスターやWEBページや雑誌の紙面とかそういったものについて、その良さをことばで説明することができなかった。あるいは、それをなんとなく気に入らないときに、ただ「気に入らない」としか言えなかった。だけどこれからは変われるかもしれない。このデザインが気に入らないならその理由を、この色の組み合わせが見づらいならその理由を、話せる。話せたら相手に伝わる。ただ「気に入らない」「気持ち悪い」では伝わらなかったことを、伝えられる。ことばで。

 

 あたらしい分野を学ぶというのは、あたらしいことばを手に入れるってことなんだ。私にはわからない世界だけれど、微粒子とか、宇宙とか、そういうことを専門にしている人たちにはその人たちのことばがあるのだろう。そして、ことばには世界が結びついている。そのことばを使うことによってしか説明や表現をすることのできない事柄があり、見えない世界がある。

 幼い子どもがことばを覚えると、いろいろなことを表現することができるようになる。話せるワードがひとつ増えるたびに、助詞を使って長い文章を話せるようになればなるほどに、子どもが表現できる世界は広がる。子どものころの私にとってあたらしいことばを覚えるということはすなわちあたらしい世界を知り、表現できるようになるということだった。それなのにいつのまにことばが背負う世界が小さく見えていたことだろう。でもほんとうは違うんだ。あたらしいことばを手に入れることは、あたらしい世界と出会うことでもある。

 

 色のことをそうやって、どちらかというと頭のほうでとらえられるようになってからは、自分の好きな色が何色だったのかわからなくなってしまった。好きな色といっても、色と色の組み合わせによって好きになったり嫌いになったりするし。何かを伝えようとするときに選ぶ色は「好きな色」ではなくて、ある種の必然性をもって選ばれた色でもあるのだし。色彩理論をかじってみて、私の世界の<色>、その<色>そのものは豊かになったのか、その逆にさっぱりした無機質なものになってしまったのかはよくわからない。変わらないのは、やっぱり相変わらず色相環は苦手ってことだけだ。

 

 今週のお題「わたしの好きな色」

珈琲中毒

 「病は気から」ということばがあるけれど、たしかに心のありようは身体に影響する。というか私の場合、身体は自分でもあきれるくらい心の言いなりになりっぱなしなんだ。ささいなことでも、嫌なことがあればとたんに食欲がなくなるし、ちょっとでもへこんだらすぐに涙が出そうになる。うれしいときは身体も軽いし、残業が続けば胃の壁にブツブツがすぐできる。嫌で嫌で仕方のない相手に仕事でやむを得ず電話を架け、受話器を降ろしてから、2分前にはなかったニキビを顎に発見した発見したときにはわれながらあきれた。しかもそのとき電話はつながらなくて、私はただコール音を聞くだけの2分間でりっぱなニキビをこさえてしまったのである。

 

 しかしこの反対があるかというと、そううまくはいかない。がんばってモリモリ食べても元気にならないし、無理してスキップしてみたってむなしくなるだけだ。身体は心の言いなりなのに、心はどこまでもマイペースで、ちっとも身体にだまされてはくれない。

 

 唯一の光明といえば、言えるのだろうか?コーヒーは私に効きすぎる。

 コーヒーに含まれるカフェインには、覚醒作用があるという。そうかも、たしかに。コーヒーを飲むと、やけに頭が冴えるような気がする。しかし冴えすぎだ。いろんなことがぽんぽんと頭のなかに浮かんで、手が追い付かない。結果、いろんなことが気にかかってひとつのことに集中できなくなる。軽いギアを全速力でこいでも自転車はちっとも進んでいないときみたいに、すべてが空回りする。

 拡張した血管を、指先の毛細血管をヘモグロビンの粒子がとおりすぎるときのざらついた感覚に胸が騒ぐ。コーヒーとアルコールを同時に摂取すると、胃の中がからっぽになるまで吐き続けることになる。うっかり正午よりも後にコーヒーを口にしようものなら、夜中まで手足が火照ってまるで寝付けやしない。ひどい中毒症状である。

 

 身体が摂取したコーヒーが、こんなにも心を支配してしまう。ふだん心にやられっぱなしの身体としては一筋の光明、ではないだろうか。いつもは大きな顔をして自らを制してくるあの心が、カフェインの前ではこんなに落ち着きをなくしてへろへろだ。いっそカフェイン漬けにしてやれ。なにも手につかなくなるくらい、心の自由を奪ってやる。これからは身体が心を支配するのだ。

 

 …しかし考えてみれば、やたらと吐いたり眠れなかったり、身体のほうだって割を食っているではないか?というか、いいかげんにしてくれ。身体も心も私のもんだ。身体がくたびれるのも心がくたびれるのも、もうたくさん。いがみあって傷つけあったりしないで、なんとか協力して私を元気にしてはくれないものだろうか?

 

 なんて、心と身体をなだめつつ暮らしてる。ほんとうに言うこと聞かないんだ、両方とも。

 

ふたつの答え

 なんだかここのところアニメだとかゲームだとか、自分の好きなものに関することばかり書いている気がしている。他に書くことがないわけでもなければ、ブログで自分の嗜好を漏らすのに味を占めたというわけでもない。幸福なことにここのところは、生きていくために必要なことや日々やらなければならないこまごまとしたことを片付けて、そのうえで好きなことに時間を割くための余白を確保することができているし、またそれを生み出すこともできている。そんななかで自分と「好きなもの」との関係についてつい考え込んでしまうこともあって、そういうわけでそうなってしまうのだと思う。

 

 「好きなものを好きな理由」という、わかりきっているようで取り掛かってみれば雲をつかむような問いに出くわしたのは、彼らが展示会を開くだなんて言い出したからだ。前代未聞、ゲーム実況者グループが催す「展示会」。多くの視聴者がそうであった(たぶん)のと同じように、私は困惑した。そしてその困惑を手際よく処理するより先にチケットの販売受付ははじまって、私は自分がほんとうに展示会に行きたいのかどうかわからないまま、気がつけば入場チケットを手にしていた。展示会の開催場所は東京・池袋。ここからは電車と飛行機を乗り継いで6時間かかる。

 言っておくけれど、私は彼らが何をしようと無条件でよろこび、金を払うような生粋のファンではない。ちゃんとした分別のあるおとなだし、自分が支払うコストとそれによって得られるであろうものとの比重について考える慎重さも持ち合わせている。それを機能させるわけにはいかなかったのは、なにしろ展示会の内容がわからなかったためだ。そもそも「イベント」と名のつくものに無縁な私は、展示会以前にその類のイベントとはどういうものなのかわからない。さらにゲーム実況者の「展示会」となればなおさらだ。いったい何が展示されるというのか。時間と金をかけてそれを見に行ったとき、はたして自分はどういう気持ちになるのか。なにもわからないまま私はとうとう飛行機の座席でシートベルトを締めていて、「好きなものを好きな理由」とは何なのか、ずっと考えていた。

 

 私は自分自身のことを「オタク」だとは考えていない。なぜかって、私はTwitterもなくYouTubeもそれほどメジャーじゃなかったころを知っている世代の人間で、そういう世代にありがちなように、「オタク」という人種に対してかなり偏ったイメージを抱いているからだ。そして自分はそんな「オタク」とは違うと思っている。あのころの「オタク」と言えば、チェックの寝るシャツをジーンズにつっこみ、両手には美少女アニメキャラのいかがわしいイラストがプリントされた紙袋。汗で曇った眼鏡。『電車男』で描かれたベタなオタクのイメージだ。

 それに、たとえアニメやゲームに興味を持ったとしても私は決して入れ込まない。好きになった作品を盲目的に称賛する信者でもなければ、アニメキャラに本気で恋するわけでもない。好きなものと私との間には常に正当な距離があり、私は世の中にあまたあるコンテンツのひとつとして節度ある関わり方をしていると感じている。そしてそれは、「オタク」がする関わり方とは違うやり方なのだって、そう思っていた。

 

 だというのに今の私はなんだ?会ったこともない実況者の、得体も知れないイベントに参加するために休みを取って飛行機に乗っている。こんなのはひいきめに考えたって、私が忌避し、自分とは違うと思い込んできた「オタク」がする行為に近いものを言わざるを得ない。節度ある距離を保って付き合ってるんじゃなかったのか?決して入れ込まないんじゃなかったのか?揺れる飛行機の中でもうひとつ、私は葛藤とも戦っていた。

 

 池袋の朝はなんだか貧乏くさい雨で濡れていた。とてもたくさんの人たちが会場の列に並び、しかし意外にも、私が思っていたようなベタなオタクはいなかった。若い人も非常に多くて、みんな快活で人懐こく、やさしかった。あれだけ緊張していたのが冗談みたいだ。たまたま列で隣に並んだ見ず知らずの他人と「混んでますね~」って会話を交わしたり、互いに整理券を見せ合って順番に並んだり。なにもこわくなかった。そこには私が思い描いていたオタクはいなくって、みんな私のように普通の人たちばかりだった。ああそうか。こんなイベントに参加するくらい、別にオタクでもなんでもない。ただ好きだってだけなんだ。

 

 すこし下の世代になれば、オタクに対して私のようなベタベタの偏見を抱いている割合も少なくなるのだと思う。インターネットをつかうこととか、ネット配信でアニメやゲームをたのしむことが特別ではなくなってきた時代。前時代的なオタクもいるにはいるのだろうけれど、それよりももっといろんな人がいろんなやりかたでアニメやゲームをたのしんでいる。そしてそれでいい。そう思っていいんじゃないだろうか。

 

 結果から言うと、私は東京に行ってよかったと思っている。ひとつは彼ら/彼女らファンたちと出会って交流して、何かを好きでいるってことに対してオタクだとかオタクじゃないとかそんなことを気にする必要はないんだって気づいたこと。アニメやゲームを、それ以外のものだって、いろんなやり方でいろんな人が楽しんでいて、そのことに引け目を感じたりする必要なんてないんだって気づけたことだ。

 

 そしてもうひとつ、実際に展示会に足を運んではじめて、自分が何かを好きだっていうのはどういうことなのか、なんとなくつかみかけたような気がしている。東京に行く前にあれほど気にしていた、「展示会に行って何が得られるのか」ということを、今ではそんなに気にしていない。展示会そのものがたのしくても、たのしくなくても、私にとってはどっちでもいいんだ。もちろんたのしませようと思って準備されたものをたのしめればそれは一番いいのだけれど、重要なことはそうじゃない。生み出されたものが気に入ろうと気に入らなかろうと、作り手を信頼しているということ。信頼して彼らのつくりだしたものはできるだけ見に行くんだっていうこと。それが、私が何かを好きだっていう感情の正体だって気がついたのだ。

 

 村上春樹が言う著者と読者との間の「信頼の感覚」がしっくりくる。「信頼の感覚」とはたとえば「『村上の出す本なら、いちおう買って読んでみようか。損にはなるまい」と思ってもらえるような信頼関係」。たとえば『新しく出た村上さんの本を読んでがっかりしました。残念ながら私はこの本があまり好きではありません。しかし次の本は絶対に買います。がんばってください』という手紙に込められているような感覚。

 

私が何かを好きなとき、そこにあるのは作り手との間の「信頼の感覚」なのだ。

 

※村上春樹の「信頼の感覚」については新潮文庫『職業としての小説家』から引用。