モリノスノザジ

 エッセイを書いています

グレーゾーンとしての障害について

 かつては福祉関連の仕事についていて、職業柄、障害のある人と接する機会も多かった。関わりが多かったのは、おおざっぱに言って精神障がい者と言われる方たちだ。「障がい者」と言えば大仰だけれど、彼らと会話し、彼らを支援する医療関係者らと関わりを持つなかで、一見理解しがたいように見える彼らの行動にも原因があることを知った。人が誰か他人と、感情や記憶や知識やそういったすべてを完全に共有することはできない。その意味では彼らのことを完全に理解しているなんてとても言えやしない。けれど、少なくとも彼らを理解しようとは思っていたし、それが支援して、寄り添うことだと思っていた。

 今思えばなんて思いあがった態度だっただろう。理解し、支援する対象としての彼らは私にとって「あちら側」の人間だった。自分がいる場所と連続した陸続きの場所にいる人としてではなく、どこか一線を越えたところにいる、自分とは違う種類の存在、そう思ってはいなかっただろうか。そのことに気が付くと、とてもショックだった。私は彼らを理解しようと努めて「支援」してきたけれど、そういう態度そのものが彼らを自分とは別種の人間として、健常者と障がい者とを分かつ線の向こう側の存在として認識していた証なのだと思った。

 

 そして、私がそのことに気が付いたのは、もしかして自分自身も「障がい者」なのではないかと疑ったとき、そのときがはじめてだった。

 それはとても些細なことがきっかけで、でもそれからの私の数年間をいっぺんに変えてしまった。障がい者を「支援」すべき立場だった私はその日、発達障害の特性を理解するための研修を受講していた。研修では資料のほかにパンフレットが配布され、そこには発達障害の人が家庭や職場において抱えやすいトラブルとその対処法がいくつか紹介されていた。私にはそのどれもに心当たりがあった。抽象的な指示は理解できないとか、順番を指示されないと優先順位が判断できないこと。どういったタイミングで誰に質問すればよいかあらかじめ教えてもらわなければ、誰かに教えてもらうということができないこと。皮肉やジョークを理解できないこと。心当たりがあるどころではない。自分以外のすべての人が、自分と同じようにそうなのだと思い込んでいた。冗談で「冷たい」とか「人の気持ちを理解できない」と指摘されることがあったとしても、誰だってそうなのだから仕方がないと思っていた。誰か他人の気持ちを理解できる人がいるなんて考えたこともなかったし、それが当たり前だと思っていた。

  (ちょっと長いので、ここでいったん区切ります)

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失われた7日間について

 初日とその次の日、凍えるような天気の下を旅行しただけで、バーベキューも花見も手作りパンもキャンプもなくただただ長い休日を過ごしている。それでも思い立って書店に出かけてみたりするのだけれど、出かけるだけでなんだか眠たくなって、何も買わずに帰ってきてしまう。今朝目覚めたらこんなに身体がだるいのは、もしかして昨日ダイソーに出かけたからだろうか?なにもない連休であるだけならまだしも、前代未聞の大連休にも関わらず規則正しく生活している自分が憎くてたまらない。なにもしない10連休ならばせめて自堕落な生活をすればいいのに。せめてもの抵抗として、昼食にカップ麺など食べてみたりする。

 やってくる前はあれほど長く思えた連休も、今日で8日目。8日…。8日あれば何ができただろう。資格勉強に打ち込むとか、自転車で遠くまで旅に出るとか、友達と遊ぶとか、積読をまとめて消化するとか、大好きなアニメのDVDを一気見するとか。けれどそれも、8日目になってから気が付くのではもう遅い。10連休は既に7割終わってしまった。せめてこの反省を次の10連休に生かせればよいのだけれど、残念なことにここまで長い連休はそうとう先までなさそうである。

 

 ポジティブな思考法について説明するとき、コップに入った水のたとえが用いられることがしばしばある。たとえば、コップの中に水があります。この水を見て「もうこれだけしかない」と考える人もいれば、「まだこれだけある」と考える人もいる。物事はとらえ方によってポジティブな意味にも、ネガティブな意味にもなりうるのです。ないものを数えるのではなく、あるものを数えて感謝しましょう。なんて。

 なにも特別なことができないまま失われてしまった7連休をポジティブに考えるとするならば、「まだ3日ある」といったところだろうか。たしかに3日。あれだけ長いと思えた10日間に比べれば短いけれど、されど3日である。その三連休ですら、今後1カ月以上は来ないのだ。まだ3日もあるなんて、ありがたいにもほどがある。ああありがたいありがたい。あるいは、もう7日。もう7日も休んだ。根がネガティブで、強引なポジティブ誘導には辟易する私には、こっちのほうが向いているかもしれない。もう7日も休めた。なにもなかったけど、いい連休だったなって。

 

 連休が終わるのはかなしい。仕事するのは好きじゃないし、休みに入る前に片付けきれなかった懸案事項がまだ残ってる。火曜日に出勤したら、その日は9時半から予定が入っていて、朝一で資料をつくらなければならないし。あたらしい仕事を引き継いだばかりだから、連休明けもしばらくは残業の日々が続くだろう。だから、一日いちにちと日が進み、連休の日数がだんだんと少なくなってしまうのはやっぱりかなしいことだ。これが終わったらまた、あの日々に帰らなければならない。

 けれど5月7日はどうしようもなくやってきてしまう。それならば、タイムリミットまでに残された時間がじりじり目減りしていくのを嘆くよりも、これまでの時間をかけて自分が得られたものを数えたい。たしかに私はこの7日間、大したことをしてこなかったけれど、大好きな自宅に引きこもってゆっくりした時間を過ごせた。いつもなら点滅する信号を見て走っていたけれど、次の青信号まで待つ余裕もできた。いつもは時間がなくて半分しか飲めないコーヒーを、休みの間は毎日三杯飲めた。

 

 コップにはもうこれだけしか水は残っていない。けれど、少なくなった分だけ飲んだのだ。その水も、あと3日で空っぽになってしまう。こんなにたっぷり水を飲めるなんて、すごく久しぶりで。

 うれしかった。

 

今週のお題「特大ゴールデンウィークSP」

正解はどちら?

 sotto_voceさんが「クイズ番組を一緒に見てても面白くない人」について書いていた(クイズ番組を一緒に観てても面白くない人 - もの知らず日記)。「当たったことを自慢する」、「わからなかったことを調べる」あたりはまだ許容範囲か。しかし、「調べた結果を考えている人にバラす」はアウトとのこと。たしかにそうだ。正解を把握したうえで、人が考えている最中の、その奮闘ぶりを見守るだけなのなら問題はない。けれど、バラしてしまうのはマナー違反である。クイズの楽しみはきっと、正解を知ることだけではない。彼/彼女はもしかしたら、ヒントに頼らず頭をひねらせるそのこと自体に喜びを感じているかもしれない。そんな彼/彼女にクイズの正解を教えてしまうのは、子どもから夢中のおもちゃを奪うことと同等である。

 

 正直なところ、クイズ番組は嫌いだ。当たればうれしいけれど、わからなかったらくやしい。そのうえ、他人といっしょに見るときには、このような『クイズ番組を視聴するにあたってのマナー』が求められる。調べたうえで正解を知っておきながらそれを他人にバラすのは論外だけれど、調べずとも正解が分かってしまったときにそれを言うのはセーフだろうか?私が答えを言ってしまったら、同じように相手が考える楽しみを奪ってしまうことになる。けれど、正解かどうかはまだわからない。不正解の可能性があるのであれば、口に出してもかまわないのではないか。たとえそれが不正解の回答だったとしても、それを口にすることによって「それは違うよ」とか「あっそういう考え方?」なんてコミュニケーションが生まれるかもしれないし。

 けれどここでやっかいなのは、正解したらうれしいが、不正解だったら恥ずかしいというクイズの性質である。正解がわかったときにそれを口に出したくなるのは、誰よりも早く・正確な答えを導き出すことに私が価値を感じているからだ。正解をわかっていること、それを他人にアピールすることに何の意味もないのであれば、わざわざ答えを口に出す必要はない。けれど、私は心の底で「クイズに正解する自分」は他人に評価されると思っている。逆に、不正解の答えを口に出すのは恥ずかしいことであり、避けるべきことだと考えている。この結果、私は自分自身が導き出した答えに自信があればあるほどそれを口に出したくなる。その結果、「これが正解かどうかはわからないから喋ってもいい」と考えていた先ほどまでの自分とはちあわせてジレンマに陥る。

 

 さらに言うと、たかがクイズ番組。調べればわかるような、単に知っているか知らないかの問題にそこまで熱くなるのも恥ずかしい。クイズ番組の楽しみ方は、ただ正解を当てるだけではないはずだ。たとえば、自分はあえて不正解の回答ばかりを口にして、その場にいるほかの誰かを立たせてみるとか。ちょっとボケて周りの笑いを誘ってみるとか。
 とはいえ基本的にはクイズ番組は「当たって楽しい」が基本にあるはずで、そんなひねくれた楽しみ方を見出すのもマナー違反なのかもしれない。いまのところ私はクイズ番組を見るときは基本的に黙る方針を取っているのだが、それはそれでよい楽しみ方と言えるだろうか?私はいったい、どうやってクイズ番組と向き合えばいいのだろうか?

 たしかにこれは、難問だ。

都合のいい脇役になりたい

 バブル時代に存在したと言われる、いわゆる「キープくん」。「アッシー」とか「メッシ―」、「ミツグくん」と呼ばれる彼らの存在を知ったときには、とてもかなしい気持ちになった。女性にとって彼らは愛情を注ぐべき本命の彼氏ではなく、必要なときに都合よく「使う」存在である。男性という生き物がいかに鈍感であろうとも、自分が彼女にとって都合がいいだけの、代わりの男が現われれば掃いて捨てられるような存在であることに気が付かずにいるなんてことができるだろうか?もしかして彼らは、自分が第二第三の男であることに自覚していながら、それでもいつかは本命に昇格できると信じて尽くすのだろうか?自尊心を殺して女に使われるその気持ちは、どうやって消化したのだろうか。

 

 都合のいいだけの存在にはなりたくない。そう思ってきた。「アッシー」や「ミツグくん」といった言葉が死語になった今でも、恋愛を伴う人間関係において一方的に消費される男女がいなくなったわけではない。会社では、多少キツい仕事を与えても文句を言わない人間が取り立てられる。花形部署への配属、忙しい日々。それは本当によいことだろうか?

 都合よくつかわれているだけの存在になりたくないのは、むなしいと思うからだ。望まれればいつでも車を出すし、食事をおごる。それが彼女に対する献身だと考えるし、尽くし続ければ見返りが得られると信じている。会社では残業が当たり前。ほかの社員の仕事も引き受けて、しばらく昇給のない給与も甘んじて受け入れる。自分が会社にとって唯一無二の存在でなくたって、そうやって毎日会社のために忙しく働くことが「やりがい」だと感じている。ただし、彼らの希望がかなえられることはない。なぜなら彼らは、会社にとっても交際相手にとっても、ただ都合のいいだけの存在だから。

 

 しかし、彼ら「都合のいい存在」にも言い分はある。まず何よりも、彼らにはだれかに都合よく使われるだけの強みがある。車を運転できることでもいい。お金を持っていることでもいい。指示された仕事はそつなくこなせることでも。まずは「使える」人間でなければ、都合のいい存在にすらなれないのだ。基本的に彼らは「使える」人間であるがゆえに、仮に現在の主人から暇を与えられたとしても問題はないだろう。キープくんをやめて、次に出会った女性が運命のひとかもしれない。会社が傾きかけたとたんにリストラされたとしても、転職先が天職になるかもしれない。一時的に「都合よく使われている」ことに悲観的になる必要はないのだ。なぜなら彼らには、強みがあるのだから。

 能力のある彼らが「都合のいい存在」に甘んじているのには、訳がある。ばかばかしいかもしれないけれど、ミツグくんは本気で彼女に惚れていたのだ。自分が第三の男だなんて、そんなことに何の意味があるだろう?彼女を喜ばせることこそが彼の喜びだ。そして、そう思うようになったきっかけだってきっとあるはずだ。都合のいい彼が彼女にとって都合のいい存在のままであり続けるのは、そうさせるなにかが彼のなかにはあるからだ。それは愛情かもしれないし、責任感かもしれない。罪の意識かもしれない。彼にはそうするだけの理由があるのだ。

 そう考えると、都合よく使われる人たち一人ひとりにそれぞれの人生があり、感情があり、記憶があることに気が付く。彼らを「都合のいい存在」に縛り付けているのは、ほかならぬ彼ら自身のドラマなのだ。

 

 いつか私が「何者かになりたい」と思っていたとき、それは代えの効かない主人公のようなものだった。「天才」と呼ばれる人たちに憧れるときもそうだった。ぼんやりと夢に見る彼らは、誰かに都合よく使われることなどなく、圧倒的な主人公としてただ一人たたずんでいた。けれど私は本当にそんなものになりたかったのだろうか。本当は、そんな誰かのそばに、ただいたかったのではないか。自分自身が主人公になんてなれなくてもいい。心の底から惚れ込んで、彼に頼まれたことならなんだって力になる。彼に頼りにされることは本当にうれしいし、自分が都合よく使われいるだけかなんてどうだっていい。そんな主人公にいてほしかったのではないか。

 

 日に灼けたダッシュボードがジリジリと熱を放って、窓を開けていても熱い。建物から出てきたヤツはこちらに気が付いて、まわりを見渡しながらゆっくりと駐車場を歩いてくる。「きみも都合のいいときに現れるもんだな」なんて言いながら勝手に助手席に乗り込んで、カーステレオを弄ったりしている。呼び出しておいて何を、と反論したくなるけれど、ヤツの身勝手な頼みをいつだって断れずにいるのは私の方だ。ほかの誰かが代わりをやるなんていうのも気に食わないし。

 車を発進させるといつもヤツは黙り込んでしまう。何があったのかもわからないままヤツの言う行先へ車を走らせる。いつだってそうで、肝心なことは何も話してはくれないのだ。でもそれでいい。黙っているヤツの横顔は見ないふりをして、しかたがないから今日は気が済むまで付き合ってやる。

 

 ――そんな、都合のいい脇役になりたい。

せかいは文字であふれてる

 ふと気になって書棚から取り出したのはロゴづくりの本。ロゴのことはよく知らない。そもそもロゴってなんだろう?Googleの検索画面を開くと表示されるあのカラフルな文字。アディダス製のジャージの胸元についている「✓」やスタバの人魚は文字じゃないけどロゴなのだろうか?いろんなかたちのロゴがあるけれど、それはどうしてそのかたちでなければならなかったのだろう?どういう意図がこのロゴには、込められているのだろう?普段の生活のなかで私はあらゆるロゴを目にしているのに違いないのに、それについて知っていることはなにもなかった。

 

 平日に図書館で調べ物をするのは一日30分と決めている。続きが気になっても本は借りない。はじめは「たった30分」と思っていたのだけれど、その「たった30分」で世界は変わる。それを知ったのがこの、ロゴづくりの本だった。

 えらんだのは甲谷一著『たのしいロゴづくり』。はじめに、英文・和文それぞれについて標準的な6種類のスタイルを提示し、それらがもたらすイメージを説明する。次に、基本のフォントを加工してロゴへと変身させるためのテクニックを紹介していく。最後に、実際に著者がクライアントから依頼されてつくったロゴの制作過程にもページが割かれている。

 文字をロゴにするためのテクニックは、ひとつのページにひとつずつ、実例も合わせて紹介される。文字の一部をカットする。重ねる。一部に色を付ける。アンバランスにする。一文字を大きくする…あんまりにもシンプルに説明されているので、素人でも簡単につくれそうな気がしてくる。

 こうしたテクニックを使いこなしてコンセプトをうまく表現すること、それが難しいことなのだろう。でももしかしたら、「ロゴ」を名乗るために必要なことはあんまり多くないのかもしれない。文字の一部に装飾がついたあの看板表記も、手元のパンフレットの見出しも、よくみたらこの本で紹介されたテクニックを使っている。そう思って街を見渡すと、あらゆるところに文字がある。喫茶店の看板、ビルの上の企業広告、お菓子のパッケージ、ペットボトルのビニール、ティッシュの箱、辞書の背表紙、炊飯器のボタン、食器用洗剤のシール。

 

 ロゴのことはよく知らなかった。それに、街にこんなにも文字があふれてるということにも気づかなかった。「たった30分」で、世界は変わるのだ。

 

たのしいロゴづくり -文字の形からの着想と展開

たのしいロゴづくり -文字の形からの着想と展開