モリノスノザジ

 エッセイを書いています

緩衝ガール

 視覚・触覚・嗅覚・味覚・聴覚はぜんぶひっくるめて「五感」なんて言われるけれど、たぶん対等ではない。「四天王」と言っても弱いのから順番に主人公から倒されていく、その序列があるように、五感にも序列がある。たとえばいくらおいしいモノでも鼻をつまんでしまえば食べても味がしないというのであれば、その食べ物のオイシサを伝えるにあたって、嗅覚は味覚に勝っている。顔は残念だけど声がいいからゆるしちゃう、なんて思うときには、自分の重心が視覚よりも聴覚にあったことに気が付く。見た目はいくら見苦しくても気にならないけれど、においにだけはあからさまに嫌な表情を浮かべてしまうとか、その反対もあるかもしれない。

 どの感覚がいちばん優位なのだろうか?それはきっと人によって違うのだろう。プロの料理人は、それが天性のものであれ訓練のたまものであれ、素人よりも強い味覚を持っているかもしれない。なにかの専門家や何かのスペシャリストでなくっても、生まれつき手の感覚が鋭い人もいる。視覚でとらえる情報だって、全員が全員カメラで映した一枚の写真のように見ているわけではない。どうしたって狭い範囲の一点しか目に入ってこない人もいれば、視界に広がるありとあらゆる情報をいっぺんにとらえられる人もいる。古い写真をあとで見返して驚くのは、目で見たとおりの現実を写し取ったはずの写真が、まるで自分の見た記憶とは別の映像として残っていることだ。感覚は絶対ではない。ほんとうの世界を実際よりも大きくみせることもあれば、反対に小さくみせることもある。

 

 においのする人が嫌いだ。いや、嫌なにおいがする人が嫌いだ。服に染み付いた安っぽい柔軟剤の香り。加齢臭。たばことコーヒーが混ざったあのにおいはどうしてあんなにも不快なんだろう?嫌なにおいをかいだとたんに愛想笑いも消滅する。一度染み付いた「あの人はくさい」という記憶はなかなか消えず、現に一度くさかった人が別の日はくさくないということがあることもなく、ついにはくさい認定者を目にすると顔中の表情筋が死滅する始末。並び立つ五感のなかで私の嗅覚はそこそこに大きな位置を占めている。そもそも他人と触れ合ったり舐めまわしたりすることはないので、触覚や味覚ははじめから蚊帳の外ではあるのだけれど、それにしたって有利だ。きっと。

 

 帰宅途中、疲れてへろんへろんの身体を電車の座席に滑り込ませると、前に立っている女性がなんとなく迷っているようなそぶりだった。私と私の隣のおじさんとのあいだには、0.7人分くらいの空白。若干キツいかもしれないと思いつつ席を詰めると、女性はよろこんでおじさんと私の間の座席に腰を下ろした。よかった。

 ――実は、ちょっとだけおじさんのにおいが気になっていたのだ。おじさんと私の間に女性が収まったおかげで、おじさんのなんだかよくわからない刺激臭はかなりの程度軽減された。ほっとする。あとはその女性が、においを気にしない人だったらいいんだけど。

 外の暗闇のせいか、向かいの窓ガラスに反射した女性の表情がだんだん曇っていくように見えてならない。それが外の暗闇のせいだといいんだけど。

斜めの部屋

 明るいトイレはにがてだ。…いや、にがてではないな。きらい、でもない。もったいない、でもない。もちろん許せないなんてこともない。どうしてだかわからないけれど、トイレの明かりは点けない。幼いころからそんな習慣で、朝や夕方のうす暗いトイレも平気だった。私が入っていてもトイレの扉の明かり窓は暗いままなので、トイレが空いていると思ってやってきた家族がよく、鍵のかかった扉をがちゃがちゃした。どうしてそんなことを、と考えてみるけれど、やっぱり明るいトイレがにがてだったわけではないみたいだ。いったいどうしてなのだろう?

 とにかくきっかけはよくわからないけれど、私はトイレの明かりを点けない。大人になった今でも、もちろんトイレは無灯火だ。けれどトイレは明るい。自由気ままな一人暮らしのトイレなのだから、そういうことだってある。言っておくけれど、他人が家にいるときにトイレの扉を閉めるくらいのメンタリティーは持ち合わせている。扉を開けっぱなしにしているのはあくまでも自分一人しか部屋にいないときだけだ。

 開け放した扉の向こうを見ながら便座に腰掛けると、明かりをつけないトイレの良さというものがなんとなくわかるような気もしてくる。南側の窓から差し込んだ日光が差し込んで、トイレのなかの一部分を照らす。時間によって入ってくる明かりの色も、強さも違って、部屋のなかの明かりも均一じゃない。もしかすると、私は蛍光灯の均一な明かりが苦手なのかもしれない。日光のように、あるいはランタンのようにムラのある明かりが好きなのかもしれない。そういえば、お風呂も無灯火が好きだ。

 

 私の住んでいるアパートとその隣のアパートとは、上空から見るとちょうど「L」のかたちになるように並び立っている。真横に並んでいるわけではないぶん「窓を開けたらお隣と目が合った」なんてことはめったにないのだけれど、Lの字の角を挟んで斜めの部屋の様子はたまにそれなりに目に入ってくる。私の部屋の斜めの部屋にはカーテンがかかっていなくって、夜もこうこうと明かりをつけたまま窓を全開にしているものだから、部屋の中のすべてが目に入ってきてとても困った。その部屋の中央には顔のないマネキンが2体あって、家主はそれにハットをかぶせたり小物をひっかけたりしていた。きっとおしゃれな家主だったんだろう。

 けれどそんな斜めの部屋も今は無人だ。やっぱりカーテンがなく、マネキンもそのほかの家具もみんな取り払われた部屋にときどき小さな明かりが灯ることがあって、新しい住人かとどきどきするのだけれど、今のところ誰かが入居する気配はない。

 

 わが家からその部屋の様子が見えるということはきっと、その部屋からもわが家の様子が見えるのだろう。晴れた日はたいていわが家もカーテンを全開にしているからなおさらだ。斜めの部屋から見えるわが家の南面の窓。そのさらに奥には、扉が開いたままのトイレ。トイレに入って腰を下ろす瞬間、すこしだけ斜めの部屋が見える。もしかして、日光を愛する私の習慣が斜めの部屋の商品価値を落としてはいないだろうか。斜めの部屋がいつまでも無人なのは、見えすぎてしまうわが家の見苦しさが原因なのではないだろうか?少しだけ心配になる。

春に試されている

 クロッカスも桜も咲かないうちに会社にだけは春がきて、新年度とかいうやつ。人事異動に飲み会に、残務整理、引継ぎ、年度末締め。そういう「いつもと違うこと」に圧迫されている。そういった環境の変化が、どうやら今年は夜眠れない方向に作用しているらしく、毎日が眠たい。春よ来い、なんて誰が言ったのだ?

 

 職場にやってきたあたらしい同僚にはさいしょ、正直なところ、いい印象をもたなかった。うすい針金のような白髪が混ざったぼさぼさの頭。ノージャケット。ワイシャツの袖は一つもボタンをかけず、もじゃもじゃの腕毛がはみ出している。ゆるゆるの靴下からも脚の毛がはみ出していて、そんな足でベルトが千切れたサンダルをこねくりまわしている、机の下。

 職場であれほどストレートにムダ毛を見たのははじめてだ。一瞬なぜか気圧される。どんなに整理整頓のされていない事務室でも、どんなにほこりまみれの倉庫でも、職場でムダ毛を見ることなどめったにない。いや、私がムダ毛的観点から見てクリーンな環境に身を置きすぎていただけで、世間一般的にはムダ毛が視界に入ることはそれほど驚くことではないのだろうか?新卒で就職して以降この会社でしか務めたことのない私の常識が、試されている。

 

 毛に限らず私は試されている。ムダ毛のほかにも「初日からノージャケットはないでしょ」とか「新人はふつうこうするのに」みたいな感覚があって、しかしそれはあるところまでは「いままでは見たことがなかった」に過ぎない。会社がどんなに大組織であったとしても、日常的に仕事をやりとりをするのはたった数人だ。いままでの人生で私が会話したことのある人、かかわりあったことのある人もせいぜい数百人くらいだろう。私のなかの「ふつう」はあくまでもこれまでに出会い、かかわりを持った人との間の了解事項でしかなくて、私が持っている常識のほうが少数派である可能性だってあるのだ。

 理解できない人やモノは、いままで自分が安心して暮らしていた世界の、その外側にあるものだと思う。幼いころは私もこの、世界の円周をどんどん広げていくことができたのかもしれない。あたらしいもの、人、行動を見ても疑わずに受け入れ、むしろ自分の常識のほうを書き換えようと努力した。だれだって子どもはそうやって社会になじんでいく。でもいつのまにか、私は自分で描いた円周の外側にいる人を受け入れなくなっていたのかもしれない。スラックスからのぞくムダ毛に反応してしまうのも、私の世界にはいままでそんな人がいなかったからだ。いままで私の世界にいなかった人が目の前に現れたとき、私は試されている。自分の世界の円周を広げてその人を受け入れるのか、それとも排除してしまうのか。

 

 春は出会いの春と言う。出会うのはいいものだけじゃなくて、異質なもののことだってある。そういう出会いとどうたたかっていくのか、これはたたかいだ、自分を変えるのも、他人を排除するのも決して簡単なことじゃない。たたかいの春。

 春に試されている。

おしゃれも戦略から

 おととい、約一年ぶりにコンタクトレンズを装着した。うんざりである。ひさしぶりにコンタクトを着けるそのたびに、眼鏡越しにぼんやりと見ていた自分の顔とはっきりとした視界にとらえる自分の顔とのギャップに息が止まりそうになる。唇の縁、粘膜から皮膚に変わるあたりの微妙な色合いの変化もコンタクトならよく見えるし。唇の赤でも肌の肌色でもない、微妙にオレンジがかったその境目の色が嫌いなのだ。年相応に頬の毛穴が気になったりもするし。同じ視力に合わせてもらっても、眼鏡だったらこうは見えないのに。

 

 コンタクトを着けていると、服装もいつもと違って見えるから不思議だ。いつものコーディネート。いつもの鏡。いつもの時間帯。なのにコンタクトを着けているだけで、なんだか今一つに見える。顔の毛穴と違って、服装なんておおざっぱな形や色の組み合わせ。普段よりも多少はっきりと見えたって変わるはずもない。のに。なんだか今日は決まらない。最初に合わせたコーディネートから、別の色のジャケットに変え、パンツもなんとなく丈感が気になるので変更し、そうなるとインナーも気になってきて、結局全身着替える羽目になる。こんなにも決まらないのはもしかすると、いつもの眼鏡がないからじゃないだろうかという気すらしてくる。それくらいいつもの服が決まらない。

 何度も着替えて、その都度やっぱりおしゃれになれない自分を見るのは悲しい。ダサい自分を認めて改めていかなければおしゃれにはなれないことをわかっていても、失敗を乗り越えて成長していくことに意味があるのだと頭でわかっていたとしても、自分が失敗する姿を見るのはつらいことだ。だから、できるだけ失敗はしたくない。

 

 おしゃれで失敗しないためのひとつの方法は、頼れる定番デッキをつくることだ。アウターはこれ、インナーはこれ。ボトムスはこれで靴はこれ。土日のどっちかでたまに出かけるときに着るくらいなら、多少同じ組み合わせで被っていても問題ない。できれば季節ごと、目的ごとにいくつかのデッキがあるといい。デザイナーでもファッションモデルでもない一般人に、毎日創意工夫を凝らしたコーディネートをする必要があるだろうか。あらかじめ着る服の組み合わせを決めておいて、機械的に服を選んでしまえばダサい自分に悩まされることもない。われながらすばらしいアイデアだと思う。

 反対に「逆デッキ」をつくるのもひとつの方法かもしれない。一度試してみていまいちだった組み合わせを逐一記録しておく。次の土曜日に服を選ぶときには、その組み合わせはもうダメだとわかっているから別の組み合わせで。そうやって休日を繰り返していくうちに、実際に服を着てみる前から「ダメな組み合わせ」がなんとなくわかるようになっているかもしれない。

 

 小学校ではミニバスケットボール部に入っていた。小さいころから運動が大嫌いなこの自分が、ミニバスケットボール部?という感じもするけれど、私が通っていた小学校では部活がミニバスケットボール部と水泳部しかなかったのだ。ミニバス部に入るととにかく合言葉のように「速攻」を教え込まれた。相手からボールを奪ったら、すぐさまパスをつないでゴールを目指す。戦術なんて言葉も知らない小学生だったけれど、先生に教え込まれた「速攻」はいつまでも覚えている。しっかりとした戦術を組み立てる頭がなくても、バスケットボールのセンスがなくても、「速攻」だけ知っていればなんとかバスケができたのだ。

 コーディネートデッキは「速攻」に似ている。時間がなくても、センスがなくても、いつもの定番の、あらかじめのやり方さえあればそれでいいのだ。もちろん「速攻」がいつも効果的なわけではない。相手はこちらの作戦をよく知っていて裏をかいてくるし、場面によっては別の攻め方をしなければならないときがくる。そんなとき、敵を出し抜くには敵をよく観察すること。ダサい自分から逃げない。頼れるデッキも頼れないデッキも、両方が勝利の道につながっていると信じたい。
 

モテは財産

 書棚に伸ばした手と手がふれあって、アラ、ドキ。お互いに顔を赤らめながら本を譲り合ったりして、どういうわけだか場所は喫茶店に移りその本の著者の話に花を咲かせている。帰り際にはしっかり連絡先を交換したりして、なんだか何かがはじまりそうな予感―――なんてことは起こっていないし、毎日死んだような表情で通勤ラッシュの駅に通っている。こんなにもたくさんの人が朝の雑踏にはいるというのに、そのうちの誰とも恋ははじまらない。一人くらいひとめぼれしてくれてもよくはないだろうか。春なんだから。

 

 そうは言ってもモテは大事だ。恋人なんていなくったって毎日やりたいことでいっぱいだし、話し相手が欲しいわけでもない。結婚に切羽詰まっているわけでもない。毎晩寝る前に電話するとか、毎週土日はデートなんて考えたくもない。しかし、そうは言ってもモテは大事である。

 極端な話、たとえ恋人や配偶者がいたとしてもモテていたいと思う。自分が愛するたった一人の人だけが私を見ていてくれさえすればいい、なんてきれいごとだ。誰だってモテないよりはモテるほうが嬉しいし、同じモテであればより総量が多い方が良いに決まっているのだ。

 社会をモテという視点で見たとき、現代社会において、ごく一握りの裕福な人たちが自身の持つ資本をうまく活用して増やしたより多くの富を蓄えている状況とイメージが重なる。モテる人は単にモテるだけでなく、そのモテを活用して自身の魅力を高めているのだ。誰だってモテればうれしいし、いい気分になる。自己肯定感が高まり、他人にも優しくできる。そうしてもともとモテる人はさらに「出来た人」となり、ますますモテる。こうしてモテる人は、自身が保有するモテを資本によりたくさんのモテを蓄えていくのだ。

 もちろん、モテはお金と違って社会全体で流通する総量に上限はない。だから、モテる人がそれを資本によりモテるよう成長していくとしても、それによってモテが一部のモテる人によって独占されるということにはならない。しかし実際の社会においては、人はモテる人とモテない人とに分かれてしまっていて、その原因はやはりモテ増幅の第一歩となる「最初のモテ」があるかどうかなのだ。

 たとえ恋人や配偶者がいたとしてもモテるほうがいいというのは、個人的に、特定の一人と一人の間に芽生える感情と、不特定多数から不特定多数に向けて寄せられるモテとは根本的に別種のものだという感覚があるからだ。モテが一人対一人の間で起こる恋愛の契機になることはあるかもしれないけれど、たいていの人は恋人に向ける気持ちと同じ感情をアイドルやYoutuberに向けるわけではないし、そうである以上はモテを求めてもなんら問題はないと思う。

 

 けれどつくづく考えてみれば、他人から寄せられる「好感度」を得点みたいに考えて、モテがどうのモテないがどうのと理屈をこねているこの姿こそが非モテの根源のような気も…して、くる。

あああ、ここまで書いてきたことは嘘です。不特定多数から寄せられるモテなんていりませんから、どうかただ一人私を愛してくれる恋人がいつかあらわれますように。春だから。