モリノスノザジ

 エッセイを書いています

ポジティブ・リバウンド(1/2)

 一日に何度も死ぬ  ところを想像する。地下鉄駅から地上へ上るエスカレーターに乗りながら、これが突然停止して、私の前に立っている人たちがごろごろ転げ落ちてきたら圧死だな。とか、スパイク付きの杖をつきながら雪道を歩くおじいさんが、ころんで、後ろを歩いている私の喉を杖の先端がかっさばくところを想像する。エレベーターで見知らぬ人と二人きりになったとき、目的の階につくまでの間に刺される自分を想像する。屋上の柵は劣化していてもたれかかるとぽっきり折れてしまう。夜布団で目をつぶるときには、もう二度と目を覚まさない可能性だってある、って思う。可能性ということだったら、どれも間違いではなく単なる大げさな心配ではないのだ。

 「はい・どちらともいえない・いいえ」の選択肢からなるアンケートでは、迷ったうえおおよその選択肢で「どちらともいえない」を選んでしまう。けれど、「どちらかというとネガティブなほうだ」という問いがもしそこにあったなら、私は自信をもって「YES」を選ぶだろう。仕事帰りの地下鉄でその日一日に交わした会話をつぶさに思い出してはため息をつくのが日課だし、家じゅうの家電が一斉に壊れるいつかを恐れて貯金もろくに下せない。ちょっとしたことで落ち込んではちょっとしたことで落ち込む自分に嫌気がさしてまた落ち込むことの繰り返しで、できることならこの後ろ向きな性格を変えたいと思っている。落ち込んでほかのことまでネガティブにとらえてしまったり、さらなるミスを起こしてしまうこともあって、ネガティブささえなければすべてはうまくいくのにって思っていた。

 ネガティブ・スパイラルはとても完全だ。一度足を取られると、そのままずるずると砂底までおちていってしまう。スピリチュアルや自己啓発本の類には手を出したことがなかった私だけれど、その本を手にしたのはそんなひどいネガティブ沼にはまって身動きが取れなくなったときだった。職場環境が変わって疲れやストレスが溜まるなか、気分転換にと出かけた東京の地下鉄でくたくたになり、コンビニではレジ待ち行列の並び方をまちがえて店員に注意された。慣れたところからひとたび外へでれば私はなにもできなくて、どこにでもあるコンビニですらまともに買い物もできないのだと思うと涙があふれてきて、夜の上野公園で泣いたのだった。帰りの飛行機で、Googleの検索窓に「ネガティブ なおす」「ポジティブになる」といったワードを打ち込む私のまえに、その本は救世主のように現れた。武田双雲著『ポジティブの教科書-自分も周りの人も幸運体質になる3つの基本と11の法則』、帯に書かれた言葉は「元の性格は関係ない。毎日が前向きに変わる。」、「どんな悩みや不安もみるみる晴れる」だった。


 この本を読んで、たしかに私の生活は変わった。急激に世界が輝きはじめた。本は「感謝」という章で始まっている。生活のなかで出会う物、接する人、そのすべてに感謝する。ないものを数えるのではなく、「すでにあるもの」に意識を向ければ、自分がとても恵まれていると気が付くでしょう、という内容だ。「すでにあるもの」に意識を向け、感謝の気持ちに気が付く癖をつけるための方法として紹介されているのが、著者が『恩返しスタイル』と呼ぶ方法。ふつう恩返しは何かをしてもらった後にするものだけれど、『恩返しスタイル』は先に感謝してしまう。いつも準備してくれていてありがとう、今日も笑顔で挨拶してくれてありがとう。常に「おかげさま」と先に感謝して、「どうやって恩返ししようか」と考える。すると、それまで自分が当たり前のことと見過ごしてきた多くのことが、いかに自分を助けてくれているか、自分のまわりにいかに恵みがあふれているかに気が付くことができる、というものだ。

 この方法を知って試してみた数日間、確かに世界は変わった。私のまわりには奇跡があふれていることを知り、朝から晩までの間これまでにないくらいずっとニコニコとしていられた。こんなに簡単なことで世界が変わるなんて。この本を読んで実践していけば、ほんとうに変わるかもしれない。ほんとうに、「どんな悩みや不安もみるみる晴れる」かもしれない。そう思っていた。あの数日間は。


 リバウンドは急にきた。順調に減っていた体重があるとき突然激増するように、昨日まで幸せだった私はあるとき突然急激な精神の落ち込みに襲われた。世界がどんどん輝きを増していくのに対して、自分はちっとも変わらないことに気が付いてしまった。周りはこんなにも自分によくしてくれているのに、自分はいったい何ができているんだろうという強い無力感。根っからのネガティブ人間に、この本は効き目が強すぎたのだ。
 それに、当初は「こんなに簡単な方法で、だれでも前向きになれる!」と妄信していた私だけれど、読み進めていくうちに次第に疑問を感じるようになった。いやいや、それは根がポジティブだからうまくいってるだけじゃないの?「成功するための本」の類の多くが結果的に成功した人によって書かれた一種の”記録”であって、その方法をまねすれば誰もが成功できるわけではないこと。それと同じように、これは著者の人生が順調だからポジティブでもいられた、それを延々と聞かされているのではないか?そう思うようになった。

 そして、ポジティブになるためにできるようにならなければいけないことも多すぎた。この本の良いところは、精神論ではなく具体的にどう行動すればよいかを示している点だった。行動を真似すれば、思考を変えられる。そう思った。しかし、根っからポジティブな人が自然にしている行動を、われわれネガティブネイティブはすぐに真似することはできない。あらゆることに感謝して、嫌なことは気にせずに、相手を変えようとは思わないようにして、心配は祈りに変換して…それらすべてを完璧にこなすことは、カエルにラジオ体操第一を覚えさせるのと同じくらい難しかった。ポジティブネイティブが生まれた時から自然にできたことを、私たちは一朝一夕でできるようにはならないのだ。こうした思いも、「しょせんは、結果的に成功した人(努力しなくてもポジティブに生まれた人)が書いた本」という気持ちを強めることになった。

 残念なのは、ポジティブになり急いだことだ。前向きになるための方法が具体的に書かれているだけに、ひとつひとつ時間をかけてマスターしていけば私もいまごろポジティブになれていたかもしれない。けれど、ポジティブになりたいという願望は次第に「ポジティブにならなければ」という呪縛に変わり、いつの間にか私をきつく締め付けるようになっていた。ネガティブは思った以上に根が深い問題で、その治療も一筋縄ではいかないのだった。

 

(この記事は2回に分けて更新します)

おたのしみはおわらない

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 二日連続でピザの広告を入れられたあげく(一日目と二日目は別々の店だけど)、玄関に三枚目の広告を投げ込まれたことで完全なるピザ受け入れ態勢となってしまった私は、ピザをつくることにした。

 ピザのつくりかたを知ってからは、ピザを食べたい衝動2回につき1回は自分でつくっている。寝起きでもすっぴんでも好きな時にピザが食べられるうえ、リーズナブルで胃の負担も少ないのが自作ピザのいいところだ。

 通常ピザといって想像するような円盤型のピザはうまくつくれないのであきらめた。一回目に失敗したときは、本来4枚に分けるべき生地を1枚のピザとして焼いてしまった。どれだけ焼いても生焼けで、とてもまともに食べられなかった。二度目はちゃんとした分量で焼いたにもかかわらず生焼けだった。我が家の貧弱なオーブンに、ピザはハードルが高すぎたのかもしれない。

 代わりにつくっているのが、フライパンで焼くピザだ。生地をこねてフライパンに広げ、タルト生地のようにふちを造成する。なかにお手製のピザソースを流し込んでから蓋をして火を通せば、タルト風ピザのできあがりだ。

 ソースの具材は、たっぷりのトマトにきざんだ玉ねぎ、ベーコン、それに角切りのモッツァレラチーズを忍ばせてある。もちろんソースのうえにもモッツァレラチーズをたくさん並べてやる。高さ3センチのピザ生地の壁に囲まれて、トマトチーズはぐつぐつと煮えたぎっていた。ピザの円形から三角形を切り出すと、熱いソースがとろとろとこぼれてくる。我慢できなくて、やけどをするのもかまわずソースにかぶりつくと、熱くてやわらかいソースのかたまりが私の歯をがっぷりと包んで、前歯はとうとう、私の歯なのかピザから生えている歯なのかわからなくなってしまった。焼きすぎてかちこちのピザ生地を、歯で噛み砕いていく。トマトソースを飲み込むと熱い塊が喉をとおって胃にすとんと落ちるのを感じて、ピザと私は、食べることを通じてひとつになるようだった。

 

 私はピザが好きだ。ピザの食べすぎで、むこう二日間なにも食べられなくなったって、ピザを食べたい。でもどうしてだろう?

 私はチーズも好きだ。コンビニのピザまんに入ってる、ゴムみたいにコシが強くてしこしこするチーズが好き。すくってもすくってもスプーンからこぼれてしまうような、やわらかいいきものみたいなチーズも好きだ。

 私は粉物も好きだ。お好み焼きはピザと同じくらい好き。外で食べるたまの機会にはふらっとお好み焼き屋に行きたくなる。チェーン店に入ると周りのほとんどが中高生でなんだか恥ずかしくなるけれど、それでもかまわないくらお好み焼きも好きだ。

 私はトマトも好きだ。トマトの野菜とも果物とも言えない、みずみずしくてあまくて、トマトだけが持っているあの食感が好きだ。近所のスーパーで売ってる地元農家の無農薬トマトが好きで、行くたびに買ってしまう。でも、なかのドロドロの部分はちょっとだけ苦手で、だからどちらかというとミニトマトのほうが好きだ。

 じゃあ、私は、チーズとか小麦粉とかトマトとかベーコンとか玉ねぎが好きだからピザが好きなんだろうか。好きなものがいっぱい入っているから、ピザが好きなんだろうか。

 思えば、ピザが好きといっても、私が食べるのはいつもマルゲリータだ。それって、そういうことなんだろうか?


 いや、なんだか、料理ってそうじゃない気もする。料理はただの足し算じゃない気がする。チーズと小麦粉とトマトとベーコンと玉ねぎでつくったピザは、チーズ+小麦粉+トマト+ベーコン+玉ねぎを超えていて、ピザはただピザとしておいしいのだ。たくさんの色を重ねて描かれる絵も、小説も音楽も、なんだって同じなのだろうけど、それらはすべて素材の足し算をていて、全体としてなにか特別な力を持っている。むずかしいことがなにもわからなくたって、ガーンと音楽を身体で受け止めたときに心が震えるように、料理もまた全体として人のこころをとらえる力があるのだ。ピザを好きでいるために、ピザをピザ以外のものに分解する必要なんてまるでなくて、私はただ、ただのピザをそのまんま好きでいればいいのだと、無言でピザをほおばりながら考えていた。


 翌日、余ったトマトソースでリゾットをつくった。トマトとチーズと玉ねぎと、ベーコンとお米でつくったトマトリゾット。昨日食べたピザと材料はほとんど同じで、おいしかった。それはトマトリゾットとしておいしかった。

 

今週のお題「最近おいしかったもの」

広告進化ろん

 ここのところ、インターネット広告が進化している。以前は、健康食品とか車とか、まったく興味のない商品の広告をみせられることも多かったけれど、最近は私の関心を狙い撃ちにしたような広告が増えてきている。しかもその精度もかなり上がってきているように感じる。

 いわゆる「行動ターゲッティング広告」というらしい。私たちがインターネットを使ってページを閲覧したり、検索した履歴をもとに表示される広告が決まる仕組みだという。公式オンラインショップで見ていて「ほしいなー」と思っていた洋服、半年前に買った漫画の最新刊の広告がニュース記事のとちゅうで突然現われたりして、その的確さに驚く。ネットショッピングってみているだけでもたのしくて、つい時間を忘れてしまうのだけれど、やっとのおもいで抜け出したのもつかの間、思いがけないところで広告をみせられると、ほしい気持ちが燃え上がってしまう。公式オンラインショップでみるそれと、日経平均株価急落のニュースに織り込まれたそれとではなんだか違った出会い方であり、約束して会うよりも偶然出会ったときのほうが嬉しい、みたいなそんな気持ちになる。ターゲッティング広告の思うつぼだ。

 まったく望んでもいないエロ・グロ系漫画の広告をしつこく見せてくるWEBサイトなんかもあって、不愉快な広告をみせるくらいならむしろどんどんターゲッティングしてください!という気分にもなるのだけれど、吹けば飛ぶような自分のちっぽけな自制心のことを考えるとそれもどうだろう…。

 経費をかけて広告を出すからには、効果は高いほうがいい。ユーザーの関心に合わせてぴったしな広告を出してあげれば、なるほど広告効果も高まるわけで、IT(なのかな?)技術の進歩ってすごいもんだなあと感じる。


 先日、職場の近くに新しい図書館がオープンしたのでさっそく行ってみた。その図書館は従来の一般的な図書館とは変わっていて、本を借りることができない。その代わり、座って本を読むためのスペースが充実している。館内には「旅」とか「宇宙」とかいったテーマごとに本がディスプレイされていて、その本たちも写真集や図鑑など、普通の図書館では手薄なジャンルがそろっている。みているだけでも楽しく、本とのあたらしい出会いにあふれている。

 館内をぶらぶらと歩いていたら、雑誌のコーナーがあった。図書館の雑誌コーナーって、そもそもいろんなジャンルの雑誌が置いてあるものだけど、せいぜい将棋とか登山の雑誌をみつけてふーんと思う程度だった。しかし、さすがは本とのあたらしい出会いを売りにしている図書館だけある。雑誌もかなり特殊なものまでそろっていた。『月刊ガソリン・スタンド』に『缶詰時報』(ちょっと気になる…)、『月刊配管技術』があれば『月刊包装技術』もある。《コンビニ業界》なるものがあることはなんとなく知っているので『月刊コンビニ』があるのは理解できるけれど、『月刊食堂』はどんな規模・種類の食堂をターゲットにした雑誌なのだろう?『養牛の友』、『養豚の友』とくればもちろん『養鶏の友』もある。『養鶏の友』の表紙見出しは「レモングラスでワクモ対策!」なのだけれど、養鶏業界から遠く離れた私には、それが「!」をつけるほどウキウキすることなのかどうかわからない。

 専門雑誌はここにはとても書ききれないくらいの種類があって、専門雑誌があるということも驚きだけど、そもそもそんな《業界》があるということにも驚いてしまう。言われてみればまあ、そりゃあるか、という気持ちになるのだけれど。

 そのなかで一冊、『月刊コールセンター・ジャパン9月号』をひらいてみる。特集は「AI時代を勝ち抜くための”コンタクトリーズン”徹底研究」、「事例にみるチャットボットの要諦」など。なんのことだかまったくわからないけれど、コールセンター業界ではAIの活用に関する話題がホットトピックなのだろうか。表紙裏には本『クレーマーとたたかう』の広告が入っていて、なんだか業界の方々のご苦労がしのばれる。他にも、効率よくシフト管理をするためのPCソフト、とか、一般向けの雑誌ではみることのない類の広告がたくさん掲載されていた。そして、世の中にはこれだけたくさんの《業界》があり、そしてそのそれぞれを顧客とする様々なビジネスが存在すること。それを考えるとなんだか宇宙的なひろがりのようなものを感じて、ただただ関心するしかないのであった。

 おもえば雑誌や新聞も、読み手に合わせて掲載する媒体を選ぶのは当然であって、すべての広告はそれがもっとも輝く場所に置かれるよう工夫されているのだなあ。かつて買っていた子ども向け漫画雑誌にはイラスト講座の広告が入っていたような気がするし、「一晩暗記術」みたいな広告も、おもえばあそこが一番の適所だったのだ。


 そういうわけで、興味があって買う雑誌やネットで見かける広告が私にぴったんこなのは納得できるのだけれど、どうしても仕組みが理解できないものがある。自宅に挟まっているピザの広告だ。

 「あ、なんか今日ピザ食べたいかも」と思いながら帰宅すると、必ずピザの広告がポストに投函されている。まるで私の心を読んだかのように、ピンポイントでその日に投函されているのだ。しかし、食べたいからといってほいほい広告に引っかかるのは癪だ。というか、食べたかったからこそ癪な気もする。なのでだいたいの場合は我慢するのだけれど、どういうわけか次の日も広告が入っている。二枚チラシが入ってたくらいでは屈しないわい!と思いながら玄関ドアを開けると、追い打ちで玄関内にももう一枚投げ込まれている。なんで二枚…しかも同じ店の同じチラシが…。なんだか急に力が抜けてくる。一度目・二度目はかろうじて我慢したけれど、もう私のなかに我慢のカードは残っていない。そうして私は、まんまと広告につられて今夜はピザを食べるのでした。

 

季節は水道管をつたって

 ある日帰宅すると、ポストに紙が入っていた。市の委託業者が置いていったその紙には「漏水の可能性があります」と書かれている。確認してみると、トイレの水がちょぼちょぼと流れ続けていることに気が付いた。
 さらに10月の検針票を見ると、水道料金が前回と比べて二倍近くの金額になっている。トイレのちょろちょろが原因だとは思うけれど、他の箇所で漏水している可能性がないわけではない。念のため業者に点検してもらうことにした。

 すぐには仕事を休めなかったことに加え、折り悪く三連休に突入してしまったこともあり、不本意ながら点検と修理を終えるまでに一週間以上の時間がかかることとなってしまった。しかし、数日とはいえ、何の応急処置も施さずに生活するのは心配である。10月の水道代が前回の二倍の額になっているのは漏水が原因であるとして、仮に漏水が始まったのが検針日の1日前だったとすると、たった一日で、通常支払う一か月分の水道料金分に相当する水量が流しっぱなしになっているということになる。そうなると、修理が一日また一日と遅れるにつれて水道料金はどんどん高くなり…おそろしい。

 そこで、修理が終わるまでの間は、こまめに水道の元栓を閉めることにした。本来トイレや台所には個別の止水栓がついていて、屋内で止水栓を閉めれば一時的に水の流れを止めることができる。しかし、我が家のトイレは止水栓のねじ頭が見事につぶれてしまっていて、とてもドライバーで回せそうな状態にない。やむを得ず、毎朝出勤前&毎晩寝る前に元栓から水を止めてしまうことにした。
 パイプシャフトは階段の共用部分にあって、上下4世帯分の水道元栓&水抜栓が収められている。完全なる性善説に基づく設計である。悪気のある人はいつでも誰かの家の水道を止めることができるわけで、お風呂場で泡まみれになっている最中に水道の元栓を閉められることを想像するとぞっとする。そして、自宅の水道栓を閉めるためとはいえ、お隣さんのライフラインの源がつまったパイプシャフトへ何度も通うのは、なんだか後ろめたい気持ちになる。他の住人は毛ほども疑っていないのだろうが、朝晩の静まり返った時間帯に廊下でゴソゴソするのはなんだか気まずい。しかも、水道の元栓というやつがなんどもハンドルをまわしてやらないとうまいこと水が出たり止まったりしないようになっていて、一瞬で作業を終えられるような代物でもない。結果、作業中に人が階段を上ってくる物音を聞いて部屋に飛び帰ることが何度もあった。

 ともあれ、何とか修理のめどもつき、漏水が原因で余分に使用した水道代もどうやら負担しなくて済みそうで、数日中には再び安心の水道ライフを送ることができそうだ。


 ところで、「台風が過ぎたら急に冷え込むようになったね」なんてよく言うけれど、台風なんてこなくたって、冬は水道管をとおってじわじわと家庭にひろがっている。ある朝水道の蛇口を開けると、いつになく水を冷たく感じることがある。暦の上では冬なんてまだまだ先なのに、水から先に冬になるのだ。水道管は地中を通っているのだから(たぶん)、地表よりも気温が安定していて、なので水の温度も簡単に上がったり下がったりはしないんじゃないかと思うのだけれど、不思議。
 大人の場合だと、体重の約60パーセントは水分だという。私の場合もきっと同じくらいにからだは水分で占められていて、たぶん今は〈夏〉なんだろう。私のなかの〈夏〉はすこしずつ目減りしていって、蛇口をとおって届けられた〈冬〉入りの水が代わりに私を満たしていく。朝のしいんとした台所で私はしんとするほど冷たい水を飲んでいて、葉っぱや水たまりがすこしずつ冬に変わっていくのと同じだけ、いや、それよりも少しはやく、身体が冬になるのを感じている。

 

王子のいないプリンセス

 あるところに、ひとりの女の子がおりました。女の子と王子さまが結婚すると、王子さまははじめに、王子をやめて大工さんになりました。大工さんになった王子さまは、長い時間をかけて女の子と二人で暮らすためのお家をつくりました。
 お家を建てた王子さまは、次に家具職人になりました。そして大きなテーブルととても座りごこちのよい椅子をつくると、それをお家に置いて女の子をそこへ座らせてあげました。
 最後に王子さまは、畑を耕して苺を育てました。苺は女の子が大好きな食べ物です。それから王子さまと女の子は、毎日いっしょに苺を食べながら、二人で幸せに暮らしました。


 幼稚園時代に自分が書いた絵本を読んだ時には、その荒唐無稽さに驚いた。まず王子が王子である理由が全くない。王子は結婚してすぐに王子の地位を捨ててしまう。王子ともあろうものなら、広くて暖炉がついている豪邸も、豪華な装飾のついたタンスでも、目くばせひとつで手に入りそうなものだ。なのに、律儀に大工や家具職人に転職してすべてを手作りしている。素人が簡単に家など建てられるわけがないから、二人が落ち着いて苺を食べられるようになったのはいったい何年後だったのだろう。

 しかしある意味では、彼が「元王子」であることこそ重要だ。王子ともあろう人が、その地位を捨てて、本気で私に尽くしてくれる。金や名誉で得た物よりも、時間をかけて手ずからつくったものをプレゼントしてくれることに「愛情」を見ていたのかもしれない。幼稚園児間で贈りあう物なんて、まんまるのどろ団子や折り紙のサンタクロースがせいぜいといったところで、当時の私にとっては贈り物が手作りじゃないことなんて想像できなかったのかもしれないけれど。

 もう一つのポイントは、女の子がお姫さまでもなんでもなく、ただの女の子だということだ。女の子はプリンセスに憧れるものだけど、プリンセスでもなんでもない自分にここまで尽くしてくれる男(しかも元王子!)というのはなかなかポイントが高い。女の子はただ王子に与えられるだけの存在で、女の子自身の情報はまったく書かれない。

 24歳で三度目の失恋をした。

 私は彼と結婚するつもりだったから、失恋はショックだった。思い返してみればつまらなくて不誠実な男だったし、本当はそんなに好きじゃなかったのかもしれない。当時の私は、大学を卒業してそれまで乗っかっていたレールから社会へ放り出されるのが不安でしかたなかった。結婚することでその次のレールに早く飛び乗りたかったのだろう。ある意味で自分が特別だった十代を終えて社会の一員となったとき、私はなんでもない存在になってしまうような気がして、「愛される私」になりたかったのかもしれない。

 失恋してそのことに気がつくと、私は激しく自己嫌悪した。それはまったく愛ではなくて、相手を利用しているだけだと思った。彼を振ったのは私だけれど、よい恋愛ができなかった原因は自分にあると思った。私は自分に自信が持てなくて、自分が存在するわけを相手に保障してもらいたかったのだった。

 それから数年間、私はしたことのなかったたくさんのことを試してみた。毎週コンサートへ通ったし、キャンプもした。今までの自分ではないものになりたくて、とにかくこれまでの自分がやりそうもないことを試してみた。苦手な飲み会も誘われれば参加したし、旅行もたくさんした。そして、それまで見えなかったたくさんのものを知った。瀬戸内の島々のあたたかくうつくしいこと、汗をかいてくたくたになることの気持ちよさ、言葉をつかって表現することの繊細で奥深いこと、すばらしい映画を見た後の高揚感…。そうして今では、「自分を好きでいてくれる人」ではなく、「自分が好きなもの」によって自分自身のことを語ることができる。

 かつて私が書いた絵本のなかの女の子は、王子がいかに自分に尽くしてくれるか、そのことでしか自分を表現できない存在だった。大人になった私が、物語の続きを書いたらどんな物語になるだろう?いまや女の子はただ王子に愛されているだけの存在じゃない。王子が建てた家から出て、そこに広がる世界を見る。苺は自分で探しに行く。彼女が彼女であるために、王子なんてもう必要ない。